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2026年2月7日 イザヤ書59章

  • hccnichigo
  • 2月7日
  • 読了時間: 3分

「見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。」(1節)

「むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(2節)


 冒頭から、思わず耳が痛いと感じさせられます。神さまの力が足りないのではなく、救いが届かない理由は、私たち自身の側にあるのだと示されているからです。神さまとの間に隔てを作っているのは、他でもない私自身の罪なのだと語られています。


 この章を読み進めながら、罪とは何かを改めて考えさせられました。それは、分かりやすい失敗や過ちだけではなく、神さまを信じていると言いながら、都合のよいところだけを選んで従ってきた私の姿でもあります。正しくありたいと願っているのに、心の奥では自分を守ることを優先し、神さまの声に素直に従えなかったことが何度もありました。イザヤが語る民の姿と重なって見えました。


 12節で人々は、言い逃れをやめ、自分たちの罪に目を向けます。「それは、私たちの背きが御前で多くなり、私たちの罪が不利な証言をするからだ。まことに、私たちの背きは私たちとともにあり、私たちは自分の咎をよく知っている。」(12節)


 この言葉は、取り繕うことも、美化することもせず、「私は自分の咎を知っている」と神さまの前に立つ。その正直さこそが、神さまの方へ向き直るための、最初の一歩なのだと思わされます。


 そして心に強く残るのは、その後の場面です。誰も救うことができない現実を、主ご自身がご覧になり、立ち上がられます。人の義ではなく、神さまご自身の義によって、救いがもたらされるのです。正義を身にまとい、贖い主として来られる主の姿は、やがて来られるイエス・キリストをはっきりと指し示しているように思います。


 神さまとの隔てを作ったのは、私の罪であり、それでも、その隔てを越えて来てくださったのは、神さまご自身でした。救いは、私が正しく生きられたから与えられたものではなく、ただ主の憐れみによるものなのだと改めて思わされています。


 私は自分の力や中途半端な従い方に頼るのではなく、弱さも迷いも含めて主の前に差し出し、救いを成し遂げてくださる方を見上げていたいと思います。


 愛する天のお父さま あなたを信じていると言いながら、自分の思いや判断を優先してきたことを認めます。どうか御霊によって私の心を照らし、正直に立ち返る者としてください。隔てを越えて来てくださった救い主イエス・キリストを信頼し、今日もあなたの光の中を歩ませてください。

 主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン


 
 
 

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