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2026年1月27日 イザヤ書48章

  • hccnichigo
  • 1月27日
  • 読了時間: 3分

『バビロンからの解放』


 1節の始まりに、イスラエル民族のことを、ヤコブの家と言っているのは、イスラエルは神の民であるけれども、その中の肉的な面、それはヤコブ自身が、父を騙したり、兄と諍いをしたりした肉的な面を強調する時に、ヤコブの家とイスラエルのことを示しているのです。そして、主は肉的なイスラエルに語り続けます。 5節抜粋「ずっと前から、あなたの耳は開かれていなかった。わたしは、あなたが必ず裏切ることを、母の胎内にいるときから 背く者と呼ばれていたことを 知っていたからだ。」と言われるのです。そうして、わたしは苦しみの炉であなたを試した。と続きます。まだイザヤが語っている時には、バビロン捕囚は起こっていないのですが、主は肉的なイスラエルを苦しみの炉に入れると宣言されています。 神に選ばれる民となったこと自身は、非常に名誉なことに違いありません。主ともっとも近い立場にいる民族ですから、しかし大きな恵みを頂くと同時に、苦しみの炉に入れられて、不純物が取り払われるように、厳しい試練にも会うという面も忘れてはなりません。イスラエルの歴史を見て下さい。何度も何度も、ユダヤの民の歴史は、迫害された歴史と言っても良いのではないでしょうか。それほど神に選ばれることは、大変な試練を通られることでもあります。


 そうして、14節にバビロンのことが示されています。主の御腕がバビロンにあって、肉的イスラエルを試練に合わせる、そうして、この事が起こってしまう150年前のイザヤによって、予告しておくと言われています。 しかし、主はイスラエルの歩むべき道に導くので、主の命令に聞き従っていたならば、平安と正義がイスラエルに与えられた、滅ぼされることもなかったであろうにと宣告されています。


 ところが、そのような試練から主がイスラエルを助ける理由も、11節「わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行う。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしの栄光を、ほかの者に与えはしない。」イスラエルを神と戦う民族として、アブラハムから一大民族にされたのは、主の御力でした。ですから、たとえイスラエルが肉的な行いで炉に投げ込まれても、主ご自身の名が汚されないように、ご自分の栄光のために、ヤコブの家を助けるという預言でもあるのです。


 ですから、20節に「バビロンから出よ。カルデアから逃れよ。喜びの声をあげて、これを告げ、聞かれよ。地の果てにまで響き渡らせよ。「主が、そのしもべヤコブを贖われた」と言え。」とバビロン捕囚からの、解放をここで宣言されているのです。イザヤは神の栄光の御座を見ました、しもべとしての主の姿も見ました。その万軍の主が、イスラエルを審判しながらも、助けの手をのばし、やがて行われる裁きの腕として、使われたバビロンからも、解放される姿をも幻として見たのでしょう。


祈り

私たちも、この章でバビロンとして表された、この世での繁栄、自分自身の幸福を求め続けていないかと心配になります。どうか主イエスが忠実なしもべでありましたように、私たちも主に従う者となりますように。 アーメン

文:森 宗孝

 
 
 

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