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2026年1月20日 イザヤ書41章

hccnichigo
1月20日
読了時間: 3分

『恐れるな。わたしがあなたを助ける』


 イザヤの時代から約150年先に起こるバビロン捕囚(BC587年)の70年間は、ユダヤの民、エルサレムにとっては、屈辱の時、神への信頼が揺らぐ時でもありました。しかし、イスラエルの歴史を見ると、この時以来、徹底的に偶像礼拝を忌み嫌い、律法を守ろうと努力することになったのです。異教の地で、イスラエルの神を拝むために、ユダヤ人会堂(シナゴーグ)の原型が起こされて、祭司による神殿での礼拝から、会堂によっての律法の学びという現在のユダヤ教へと移行したのもこの時期でした。しかしながら、これが律法主義へと走ってしまい、律法を守るための垣根となる口伝律法が数多く作られて、それを守ることが優先されて、主の律法の本意、神を愛し、隣人を愛する精神から離れていってしまうことを私たちは主イエスによって気づかされるのであります。これは、主イエスが「わざわい」としたパリサイ人や律法学者だけではないのかもしれません。彼らは、その時代の宗教指導者たちでした、今の時代であれば、教団や教会の指導者、例えば自分は今、教会の執事となっていますが、もしも神を愛し、隣人を愛することから離れてしまって、この世の人、教会員や社会の評価が大切で、もしも教会自身を守ることが優先されてしまった場合には、主イエスの語っておられる「わざわい」の元となってしまっていないかどうか、聖書に示し合わせて自分達の判断を、照らし合わせることが必要となるのです。つまり律法主義に代わる教会主義に、ならないように、主イエスのみことばに耳を傾ける姿勢が大事ではないでしょうか。


 10節で、神への信頼を失いそうな民に、語りかけています。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」神の右の手は、まざに御子イエス・キリストであります。続いて14節b「わたしがあなたを助ける。ー主のことばー あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。」と続いています。私たちの教会の頭となっておられるのは、執事でも、牧師でも誰でもない、私たちの主であるキリストであることに感謝致します。その時、私たちは主にあって喜ぶ民となるのです。


 しかし、父なる神は続けてこうとも語っておられます。27節b〜29節「彼らの中には助言者がいない。わたしが訪ねても返事のできる者が、見よ、彼らはみな偽りで、そのなすことは空しい。彼らの鋳像はかぜのようで何もない。」これほど厳しい批評はありません。天の神は、永遠のお方、想像を絶する愛のお方であるからこそ、その怒りも熾烈な炎となることも忘れてはなりません。主を恐れることが知恵の始まりであります。 


祈り

どうか、現代の私たちも、主が訪ねても返事のできない者となりませんように、みことばによって、何が一番大切なことであるのか、目を離すことがありませんように、主は、私たちが罪人である時に愛してくださいました、私たちも、今でも罪を持つ者たちをただ非難することではなく、主によって、愛する事ができる者と変えられますように。 アーメン  

文:森 宗孝


 
 
 

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