2026年1月19日 イザヤ書40章
- hccnichigo
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『次世代の苦しむユダヤの民へ』
イザヤ書を区分けすると、前半の1~39章の対象はイザヤと同時代のユダヤの民へ書かれています、そして、特に神の審判と悔い改めが預言の中心となっています。それから、後半の40~66章は、もっと将来に、神の審判である苦役、特にイザヤの時代から約150年後に起こったバビロン捕囚を経験する、次世代のユダヤの民に向けて書かれていて、必ず解放される希望が預言の中心となって描かれている。あまりにも正確にバビロン捕囚としかも未だ生まれてもいない解放者となるキュロスの名前まであげて書かれているので、学者の中には、この後半のイザヤ書は、別の人物によって後年になって書き足されたのではないかと主張する者もいるのですが、イザヤはすでに前半の書で、約700年後の主イエス、処女降誕も預言していますから、バビロン捕囚の解放、そして主イエスの誕生、さらに主イエスの十字架とやがて訪れる主の日、千年王国も幻として、60年間近い預言者として勤めた中で、気も遠くなるような将来の事まで、すべてのイザヤ書が、一人のイザヤにより、しかも主によって彼は、幻として体験して全部を書き上げたのであろうと考えています。
40章の始まり、「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。ーあなたの神は仰られるーエルサレムに優しく語りかけよ」という希望の言葉で始まっています。「その苦役は終わり、その咎は償われている。」と約束してからバプテスマのヨハネの登場のように、3節「荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道荒を用意せよ。」と続くのです。ですから、バビロン捕囚で失望し、本当に私たちの神はいるのかと悩むことになる、次世代のユダヤの民に、希望を持ちなさいと語りかけ、救い主が現れるという希望のメッセージを語っているのが、この40章であります。
良い知らせは続き、5節「このようにして主の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。まことに主の御口が語られる」と主イエスが受肉して、人としてこの世に来られることも描かれています。そして11節a「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き」と主イエスが子羊を抱いている絵を想像します。
しかし、やがてバビロン捕囚となる民は言うのです。27節「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされている」と。確かに、現代の私たちも、苦難に直面した時に、私は神に見過ごされている、私の願いは聞いてもらえない、と嘆くことがありますね。 なぜこんな事が自分の身に起こるのか。神は私の祈りを聞いてくれていないと怒りを持つ経験です。誰でもそのような経験を通して、やはり主イエスと私と共に居てくださったと悟ったこともあるかもしれません。詩篇119編71節「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより 私はあなたのおきてを学びました。」こう悟る方は幸いです。
最後にこの40章は、有名な締めくくりがあります。31節「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、わしのように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」
祈り
私たちの信仰は、キリストを待ち望む、待望教であります。新しく主によって生まれ変わり、苦難の時にも、やがて頂く冠を思いながら、耐え抜く力が与えられて、苦しみのなかにも、喜びの芽が伸びてくることに感謝致します。どうかつまずき倒れることがありませんように、主の御腕によって、新しい力が与えられていることを信じます。 アーメン
文:森 宗孝

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