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2025年9月10日 詩篇第128篇

  • hccnichigo
  • 9月10日
  • 読了時間: 2分

『祝福される家庭』


 この詩篇は、都上りの歌としてバビロンでの捕囚から解放されて、念願のエルサレムに戻ってきた時の経験を土台となったのでしょうか、そして、その後色々な苦難を乗り越えて、ユダヤ人の心の故郷であるエルサレムに向かう旅の途上での旅情を歌った詩篇だと思います。 


 ここでは、主を恐れて、主の道を歩むすべての人の家庭は祝福を受けていること、それは主が聖なる民を愛し、その都エルサレムに手厚く祝福を与えているように、主の道を歩む者の家庭は、主の恵みを受けていることを描いています。


 しかし、恵まれていることの表現が面白い、3節「あなたの妻は 家の奥で たわわに実るぶどうの木のようだ。」自分は、自分の妻のことをぶどうの木にたとえて見ることはなかったけれど、もしかしたら、家の中で、ある時は限られた食材の中から、おいしい食事を作ったり、疲れて家に帰ってきた子供達に笑顔を与えたり、エプロン姿から、突然美しい夕食用のドレスに変身したりすることを思うと、確かにたわわに実っているぶどうの木という表現に納得できると思いました。


 このように、いにしえの昔から、祝福される家庭は、経済的に裕福だったり、貴族の家庭であったりするのではなく、主を家庭の中心にして、主を恐れ、敬い、主に感謝することを忘れずにいる家庭が、たとえ召使いがいるわけではなく、貧しくとも、子供たちと食卓を囲み、主に感謝して頂く家庭は、祝福を受けるのです。


 イエスが未だ生まれたばかりの時に、両親がイエスをエルサレムに連れて行って律法に定められた通りに、割礼を施したとルカ2章でありますように、多くのユダヤ人両親は、幼子を連れてエルサレムに向かったことでしょう。途中は荒野で野宿したり、知り合いの家に泊まったりする旅でしたでしょう。そのような旅の途中の、キャンプをしながら、焚き火を囲んで、子供たちに、主を恐れ、主の道を歩む者は、祝福を受けると、この歌を一緒に歌ったのかもしれません。


祈り

主よ 私たちも主に在って、主を恐れ、敬い、感謝し続ける家庭でありますように、患難に会おうとも、主の道を歩むことができる家族でありますように、私たちの心を整えて下さい。 アーメン 

文:森 宗孝(関先生の代打として)


 
 
 

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