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2025年8月14日 詩篇第101篇

  • hccnichigo
  • 8月14日
  • 読了時間: 2分

「全き道に心を留める」 「全き心で行き来する」


 「全き道」とは、神によって示された、神の喜ばれる生き方を意味しているそうです。「全き心」とは、神のみこころと私たちの心が一つになっていると言われています。


 果たして、自分が日々神の喜ばれる生き方をし、そして、それは神のみこころと自分の心が一つになっているだろうかと自問自答させられるところであります。


 スーパーに食料品を買いに行った時に、ある一人の店員がとった行動が、まさに神の喜ばれる生き方だと思わされて感動しました。お金を払っていたレジの所で、先に買い物を終えて出ていったお客が、フルーツの入った小さなプラスチックの入れ物が袋から下に落ちてしまって、フルーツが散乱してしまっていた。そのことを見ていたある一人の店員が去って行こうとしたお客の後をおって、新しいものを取ってきて差し上げたのである。その人のとった行動が機敏で親切だったのでとても感動しました。そして、今日の詩篇101篇を読んだとき「全き道」の御言葉につながったのである。これが神の喜ばれる生き方なんだと示されました。小さなことではあるけど、スーパーの店員さんは見事に神の喜ばれる生き方をしたのです。神の喜ばれる生き方とは、大きいことだけをするだけではないのです。この店員さんのように小さなことを相手の為に喜んですることが、神の喜ばれる生き方だと思います。そのことを通して次の御言葉が示されました。


「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、もっとも小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。」ルカの福音書16:10


 愛する天の父なる神様。私たちが日々の生活の中で、全き心で、全き道に心を留めていくことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 
 
 

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