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2025年5月27日 詩篇第22篇

  • hccnichigo
  • 1 日前
  • 読了時間: 3分

『嘆きから賛美へ』


 この22篇は、まさに主イエスが十字架上で、お語りになったことばが記されていて、22篇の最後にはこの初めの嘆きが賛美に変わることを表した詩篇です。第一コリント1章18節「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」このみことば通りに、十字架の主イエスのことばは、受け取る側にとっては、愚かに聞こえる場合と神の力として勇気を与えて下さる場合に別れます。聞く者の姿勢によって全く異なることを理解しましょう。


 マタイ27章45節やマルコ15章34節で、十字架のイエスは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と闇が全地をおおった後に語られました。今までは、天なる神を常に父と呼ばれていたイエスは、ここで初めて「わが神」とおっしゃられました。十字架の肉体的苦しみの上に、さらに永遠のかなたからいつまでも共におられた父なる神が、罪を背負った主イエスに対して、目をそむけ、子なるイエスが父と別々になられた、その瞬間のみことばですが、これは救われる私たちにとっては、主イエスが詩篇22篇をすべて要約して語られた言葉であると信ずるわけです。信じない者にとっては、主イエスといえども、この十字架で神から見捨てられたと嘆いているではないか、と反論します。主イエスは神の子ではなかった。ちょうど十字架の周りの者や同じく十字架にかけられた罪人が、神の御子ならば、十字架からおりてみろ、そうしたら信じると言っているのと同じですね。


 もしも主イエスが詩篇22篇を要約して、22篇の1節「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず 遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。」と理解すれば、主イエスの十字架での苦しみが、極限であったことをも理解します。しかしそれだけでは終わらないのです、肝心なのは、この22篇は嘆きが賛美に変わる詩なのです。


 主イエスの十字架を目の前にしたように22篇の詩は、続きます。18節「彼らは私の衣服を分け合い 私の衣をくじ引きにします。」まさに主イエスの衣はローマ兵がくじ引きで分け合ったのです。マタイ27:35「彼らはイエスを十字架につけたから、くじを引いてその衣を分けた。」詩篇22篇7〜8節には「私を見る者はみな 私を嘲ります。主に助け出してもらえばよい」まさに十字架の主イエスをみて、嘲笑った祭司や群衆のことばそのものです。


 しかしながら、皆さん、22篇の最後の節を良く読み込んでみましょう。29〜31節抜粋「すべての者が主の御前にひざまずく主のことが世代を超えて語り告げられます。主の義を告げ知らせます。主が義を行われたからです。」まさに、主を信じるクリスチャンたちが、世代を超えて語り告げていることを、預言的に語っています。 イエスの十字架のことばは、間違いなく、諦めや嘆きのことばではなく、最後には、賛美に変わってゆく、詩篇22篇を心に思い浮かべた者たちは、主イエスの本意を理解したと確信します。


祈り

 主のみことばには力があって、信じる者には嘆きのことばではなく、やがて賛美に変わってゆくことばとして、理解できる力を聖霊が与えてくださっていることに感謝致します。アーメン 

文:森 宗孝


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