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2025年4月18日 ガラテヤ人への手紙3章

  • hccnichigo
  • 4月18日
  • 読了時間: 3分

 この章は、パウロが「ああ、愚かなガラテヤ人。」と言って、彼の落胆あるいは失望で始まります。「私のためにイエスが十字架につけられ、私の罪が赦された」というイエスと自分の関係がはっきり分かっていたはずです。それが分かったのは律法を守ったからではなく、十字架による救いを信じたからではないのですか。信仰の出発点は律法を守ろうと努力することではなく信じることだったのに、もっと強いクリスチャンになるために、律法を守ろうとするのですか。神があなた方に聖霊の力を与えてくださったのは、律法を守ったからではなく、キリストを信じたからではなかったのですか。


 アブラハムも同じ経験をしました。アブラハムは神の約束を信じることによって、正しい人と認められ、天国に入る資格が与えられました。信仰に生きる人は皆(ユダヤ人もそれ以外の人も)アブラハムの子孫です。天国の資格が与えられています。それは聖書が前もって言っていたことです。「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」と。神はこのようにアブラハムに語られたのです。


 一方、律法を守ることによって救われようとするものは神に呪われます。なぜなら律法を全て守りきることはできないからです。守らなければ呪いというのが律法の約束です。本来なら守らなければならない律法を守れなかった私たちは神から呪われる存在でしたが、キリストは私たちを律法の呪いから解放してくださいました。


 アブラハムに約束された「信仰による救い」の約束はその後430年後に律法がモーセに与えられた時にも有効でした。では律法が与えられたのはいったいどういう意味があったのでしょう。それは神のいましめがどのようなものであり、そのいましめを守らないということがどれほど罪深いことかを人々に示す為でした。その有効期限はキリストが来られるまでです。モーセに与えられた律法はみ使いを通してでしたが、アブラハムは直接神さまから与えられた約束です。


 そうであれば、律法は神の約束に反するものでしょうか。そうではありません。律法は私たちの罪を自覚させるためのものです。キリストが来られるまで、律法は私たちを監視し、守るためにありました。またやがて来るキリストへと導く養育係の役割があったのです。しかし今や私たちは信仰により、神の子とされました。ユダヤ人もそうでない人たちも、奴隷も自由な人も、男も女もみな同じクリスチャン、キリストにおいて一つです。アブラハムに与えられた約束を私たちも相続したことになります。


主の祈り:イエス様が十字架上で犠牲になって下さったゆえに、律法によらず、信仰によって救われたことを心から感謝致します。この豊かな恵みを、そのイエス様を知らない人々に伝道出来ますように、聖霊様助けてください。尊いイエス様のお名前によって祈ります。アーメン


 
 
 

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