2025年12月23日 イザヤ書13章
- hccnichigo
- 13 分前
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『バビロンへの宣告』
イザヤ書を全体的に見ると、前半の’1〜39章は、神の審判、バビロン捕囚預言、悔い改めへの導きが中心で、これらはイザヤと同世代のユダヤ人達に語られています。そして後半の40〜66章には、イザヤの時代から200年後の将来のユダヤ神、捕囚にあって希望を失っている世代に対しての神の慰めが中心になっている構造であることを、覚えておきましょう。
今日の13章は、この神の裁きである、南王国ユダがバビロン捕囚、エルサレム神殿の崩壊という苦難に出会うことが預言されているのです。 泣き叫べ、主の日、裁きの日はやってくる、憤りと燃える怒りの、残酷な日として、11節「わたしは、世界をその悪のゆえに罰し、悪しき者をその咎のゆえに罰する。不遜な者の誇りをくじき、横暴な者の高ぶりを低くする。」これは直接的には南ユダの裁きですが、まるで、現代の私たちの世界をも裁いているように思うのです。確かに文明は発達して、スマートフォンで、映画も音楽も会計もすべて処理できる便利な世の中になってはいますが、果たして人類の道徳は高まっているのでしょうか。ちょうど繁栄を享受していたローマ帝国の道徳が地に落ちたように、文明の発達は、自己中心の世の中に導かれ、道徳を低下させてしまう、私たちの罪のために闇の世界と向かってしまっているのではないかと想像してしまうのです。
確かに、バビロン帝国は、ユダヤへの裁きの道具、主の日の裁きの器として神によって選ばれたわけですが、選ばれたことがバビロンにとって良い事ではなく、逆に、聖なる神の民、神殿を破壊したことによって、バビロンもやがて主に裁かれてしまうのです。それが17節に暗示されています。実に13章から23章までは、ユダ王国の周辺諸国に対する審判、主のみわざをイザヤが見た通りに預言している箇所に来たわけですが、これほ人類に、やがて訪れようとしている終末につながる予表として見ることもできると思います。
17節に、バビロン帝国に対して「見よ、わたしは彼ら(バビロン)に対して、メディア人を奮い立たせる。」と預言されています。これは南ユダ王国の民は、バビロン帝国yによって、神殿は破壊され、バビロン捕囚が紀元前605年に起こるのです。ですから実にイザヤは150年先のことを預言したのですが、それからもっと先の、今度は、バビロンが約60年後 紀元前539年に、キュロスによって陥落することも、ここに示されています。これは、イザヤが200年もの将来のことを預言したことになるわけです。
ここにある、キュロスはペルシャ出身ですが、母のマンダナは、メディア王国の王女であったので、バビロンはメディア人を率いるキュロスの軍によって、1日で崩壊するのです、メディア人を親とするキュロスの名前が、45章1節にはっきりと示されていて、本当にイザヤ自身が200年先のことを書き記したのだろうかと、神学者の間で論議がありますが、自分としては、聖書の預言は、そのまま確かなこととして受け取っていますので、確かにイザヤが幻として、主から示されたと信じております。ですから、イザヤの終末、主の日に対しての預言も、まだ成就していない部分も、やがて確実に来ると思っています。
祈り
今 自分は聖書の学びとして、イザヤ書を学んでおります。主イエスは詩篇を愛しましたが、預言書としては、イザヤ書を通じて話されて、しかもイザヤの預言通りに、イエスは生きる目標としてイザヤ書を扱われたのです。イザヤ書の学びは主イエスをもっと理解する学びであることに感謝致します。アーメン
文:森 宗孝

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