2025年11月19日 伝道者の書9章
- hccnichigo
- 4 分前
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特に心にとまったのは10節。
「あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、自分の力でそれをせよ。」(10)
何もしないで生じる後悔と何かをして生じる後悔と、どちらがいいだろうか。まあ、どちらにしても後悔はしたくないが、前者はその後悔から学べることは少ない。後者の方は、行動したことにおいてそれは経験として蓄積され将来への良い糧となるだろう。
十分に考えて、調べて、そして祈って、「出来る」と思ったら、まずやってみることだ。もちろん動機の確認は必要だ。それが神を愛し、人を愛することに結びつくかどうか、それが見分けるポイントになる。ちょっと神さま、ここは目をつむって、と思ってしまうような事であるなら、それは止めた方がいい、それこそ後悔することになる。
ある精神科医が、日本の若者の将来を考えたときに、これだけは変えなければならないという日本の文化を指摘していた。それは、失敗してもやり直せる文化、セカンドチャンスが認められる文化だという。実際には、日本の社会には、失敗を認めない一度失敗したら終わりかのような文化的雰囲気がある。
だから、丁寧に良い仕事をする動機が「失敗しないため」という否定形である場合が多く見られる。そうすると、失敗はしない代わりにチャレンジも出来ないということになってしまう。
そして、人間はどんなに頑張っても失敗しないことはない、多かれ少なかれ失敗はするものだ。その失敗によって自分が否定されてしまうなら、その社会は恐れに支配されることになる。
この御言葉は、そんな縮こまっている者たちに、失敗することを恐れず、まず行動してみようと発破をかけてくれる。ペテロのように大失敗した者に対して、イエス・キリストは何度もチャンスを与えた。失敗した者を責めることなく、むしろ立ち直れるように祈り、励まし、力を与えて、失敗を乗り越えさせてくださった。
社会の中に、そして教会の中に、失敗を恐れない、失敗した者を裁かないでむしろ励ます、そのような文化が造られていったら素晴らしい。
天の父なる神さま
私たちは失敗することを恐れる者たちです。でも行動すれば失敗するリスクも生じます。主よ、どうか私たちが失敗することを恐れず、また失敗した者を裁かず、何度でもチャレンジしていけるように励ましてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
文:関真士

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