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2023年4月3日 ディボーション

ナホム書 3章 

                                                                                                   

『ニネベに下ったさばき』 アイゾン直子

 

 凄まじいばかりの主のさばきの預言が語られています。このニネべという町は、何ゆえに、このようなさばきに遭うことになったのでしょうか。

 

 アッシリア帝国は、今のイラク北部にあった帝国です。彼らは、今でいうエジプト、アラブ共和国、イスラエル、イラク、シリア、トルコ、レバノン、ヨルダンといった古代オリエントの主要部分を統一し、世界帝国となった最初の国だそうです。帝国は1400年続きますが、その首都として栄えていたのがニネべだそうです(世界史の歴史「アッシリア」参照)。

 

 主は、ニネベの町を「流血の町」と呼んでいます。

 

「わざわいだ、流血の町。すべては偽りで略奪に満ち、強奪はやまない。むちの音。車輪の響き。駆ける馬。飛び跳ねる戦車。突進する騎兵。剣のきらめき、槍のひらめき。おびただしい戦死者。山なす屍。数えきれない死体。死体に人はつまづく」(3:1‐3)

 

 アッシリアの残忍さについては、帝国があった付近から出土した石碑などによって明らかにされているそうです。彼らは、敵国の人間を柱に吊るし、それらの皮を剥ぎ、見世物にしたりしていたと言います。略奪、強奪なども行われていました。彼らが征服した地に、どれだけの多くの人の血が流され、命が失われていったのか、想像するだけでも恐ろしい光景です。

 

 ニネべというと、ヨナ書で出て来た町ですが、その時主は、彼らに悔い改めの機会を与えました。彼らの残忍さを知っていたヨナは、憎きアッシリアの人たちを救うなんてとんでもない、と主の召しを避けようとしました。ヨナのそのような気持ちとは裏腹に、当時のニネべの人たちは彼の預言を受け入れ、悔い改めたため、主のさばきから逃れました。憎き敵国を救いに導いたヨナは、自分が嫌になり、命を取ってくれと神に祈りました。その時の彼の気持ちが、今回ナホム書を読むことでよく理解することができました。

 ヨナの預言によって一度は救いに与った民でしたが、その後約150年の間には再び偶像礼拝に陥っていったのでしょうか。150年後のニネべは、以前よりも更に状態が悪くなっていました。

 

「汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰ってみると、家は空いていて、掃除されてきちんと片付いています。そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです。この悪い時代にも、そのようなことが起こります。」(マタイ12:43‐45)

 

 イエスの十字架以降、福音を信じた人の内には、聖霊が住んでおられるので悪霊が住む余地はありません。しかし信仰のない人の内は空き家状態にあると言います。誰も住んでいないので、悪霊が住み着きやすい状態にあるそうです。ヨナの預言の時には、右も左も分からない12万人以上の人間と、数多くの家畜を思い、主のあわれみはニネべの民に注がれました。しかし、アッシリア帝国のために流された血は、もはやその域を超えてしまったのでしょう。預言通り、ニネべは陥落、アッシリア帝国は紀元前612年に滅亡、世界から消滅したのでした。

 

 上に記しましたマタイ12章の汚れた霊についての話の前に、ヨナのしるしの話があります。これは、あくまでも私個人の意見ですが、ヨナのしるしがイエスの十字架、葬り、復活を予見しているように、汚れた霊の話は、ニネべ陥落の出来事が終末時代を予見している、という教えなのではと感じました。

 

 主のさばきの恐ろしさゆえに、罪を犯すことへの戒めを更に感じさせられますが、神は私たち人間が罪を犯す生き物であること知っている、ということを覚えたいと思います。罪を罪と定めることができるのは、神のみであることを理解するなら、そのきよさの前に立って「私はきよい」とは誰も言えません。主は、そのきよさゆえに、罪を放置することができません。しかしだからといって、罪を犯す人間をすぐさま、さばくことはしないのです。必ず、悔い改めの道を与えてくださいます。それに応答するかしないかという選択が、救いとさばきを分けるのだと思います。

 

 ニネべは、悔い改めから僅か150年で陥落、この世から姿を消しました。イエスの十字架以降、異邦人への救いの道は大きく開かれ、2000年経った今も開かれています。しかしやがて、その道が閉ざされるときが来ます。その日がいつなのか、私たちに知るすべはありませんが、私たちにも知らされていることもあります。それは、御国の到来です。イエスは必ず再臨され、信者はイエスと共に永遠の御国で暮らすようになるのです。この世においては肉体の死が訪れますが、それはあくまでも過程であって、終わりではありません。この御国の福音は、すべての人に与えられている道です。

 

「まことに、みことばは、あなたのすぐ近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。」(申命記30:14)

 

 祈り:愛する天のお父さま。復活祭を前に、ニネべに対するさばきの預言書を通して、あなたのみことばと深く交わることができました。感謝いたします。どうか、すべての人に注がれている神の愛を伝える者として、特に、日本にいますあなたをまだ知らない家族に対して、福音を伝えることができますよう、その道を整えてください。心より、お願い申し上げます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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