アモス書3章
「神に選ばれた重責」
初めに、この世の支配者はサタンである事を聖書は、はっきりと語っています。主イエスも40日40夜の荒野の誘惑で、サタンに「私を拝めば、この世の全てをあなたにあげよう」との誘いがありました。
実はエルサレム宮殿跡、西壁、嘆きの壁の所で、もしかしたら主が連れてこられたのは、この壁の上で昔は、さらに20メートルほど深かったので、60〜70メートルの高さに立ちエルサレム市街、ダビデの町を見渡したのではないかという場所を見て来たんです!
果たして主に従いたい者達は、主と同じ様に地上の支配者サタンに対抗する事になってしまいます。神の愛を伝えようとする宣教も当然ながらこの世の支配者の迫害に遭うのです。
ところで、牧者であり、農民である審判の預言者アモス(重荷を負う者)は南王国の田舎者です。南王国は、荒野が多い地区です。その田舎出身の彼が大都会もあり、緑の農地が多い北王国イスラエルに来て、まず語り出しは周りの異邦人達の国々の罪を裁くのです。この3章に入って、今度はよそ者として来ている土地であるイスラエルを裁く言葉を語り始めます。
例えば最初の裁き、2章までのアモスの話が、イスラエルの都会の中で語られていたと想像してみましょう、イスラエルを取り囲む異邦人たちの裁きの預言を聞いて、北イスラエル、ユダヤ人聴衆は手を打って、頷いて、そうだ 預言者アモスその通りだ、彼らは裁かれるべき異邦人だと湧き立った事でしょう。しかし、アモスが続けて、この3章で、矛先を変えて、自分を囲み聞き入っているイスラエルの民自身の裁きの話を聞いた時に、恐らく静まり返って、今度は怒り出した事でしょう。彼らには自分達は選ばれた民としてのプライドがありました。神は確かにイスラエルをエジプトから導き出し、奴隷の身分から救われました。主が全ての種族の中からイスラエルの民を選び出したのです。しかし救われたイスラエルの民は、今度は偶像の奴隷となっていたのです。
聴衆が怒り出す事で、思い出すのは主イエスも生まれ故郷のガリラヤの会堂で、安息日にイザヤ書61章から朗読されたのですが、ここに書かれているのは、自分のことで、わたしが油注がれた救い主であることを公然と伝えたので、郷里の兄弟たちが神を冒涜していると、主イエスを崖から突き落とそうとした事件です。神のしもべは、この世から嫌われて、身の危険に合うのです。
ところで、マグダラ村はガリラヤ湖畔の村で主も訪ねられたガリラヤの会堂 シナゴグがあります。ここはマグダラのマリアの出身地でありカペナウムのすぐ南にある村で、考古学の発掘により、魚の燻製などされていた事が判っています。ここのシナゴグで発見されて、そこにあった貨幣から主イエスの時代だった事が確認されました。主イエスが必ずここを訪ね、ここで神の福音を伝えられた、2千年前のその場所を見る事ができた事に感動しました。
話は戻りますが、神に選ばれた預言者も迫害を受けますが、神が世界の救いのために選ばれたユダヤ人、つまり神の民として選ばれたという事は、神の試練も受け、この世からの迫害を受ける事です。世界の歴史を見ても何度も何度も神の民であるユダヤ人は迫害を受けています。第二次世界大戦ではナチスからだけでなく、クリスチャンからも主イエスを十字架にかけた民として迫害を受けたのです。神の選びには大いなる祝福がありますが同時にこの世からの迫害を受け、信仰がためされるのです。
3節「約束もしていないのに、二人の者が一緒に歩くだろうか。」主はイスラエルの民と契約して一緒に荒野をも歩み守って下さった、それなのに、主に反逆する咎を犯した、それゆえにあなたがたを罰するとアモスを通じて主は宣言されるのです。
7節「まことに、神である主は、ご自分の計画を、そのしもべである預言者たちに示さずには、何事もなさらない。」確かにアモスはイスラエルに、神の審判とその理由を告げています。預言者でもあられる主イエス・キリストも神の計画を新約聖書を通じて私達の目の前に、これから起ころうとしている再臨、永遠の身体の約束を何度も繰り返し伝えて下さっているのです。
私達も主イエスによってイスラエル民族のように、選ばれて、神の子として下さいました。
祈り
イスラエル民族のように私達も選び出されました、そうして自分の全ての咎のために、本来は罰せられる身でありながらも、主イエスの十字架の贖いによって救い出されたことに感謝せずにはおられません。どうか自分一人が感謝して終わるのではなく、兄弟たちも救われますように、一人一人がみことばを伝える者として導いて下さい。 アーメン
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