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2022年8月20日 ディボーション

  • hccnichigo
  • 2022年8月20日
  • 読了時間: 2分

エレミヤ書25章


『十字架にコミットメント』


 とうとう堪忍袋の緒が切れた。エレミヤは二十三年間、神さまから聞いたことばを絶えず、しきりに語りかけてきた(3節)。しかしユダの諸国民は聞かなかった。従わなかった。早くから主の預言者を遣わしてきたのに、それも聞かず、耳を傾けもしなかった。悔い改めのチャンスはなん度もあったのだ。それなのに神さまにコミットメントしなかった。ついに、神さまの怒りのさばきが下されようとしている。

「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。彼らは飲んで、ふらつき、狂ったようになる。わたしが彼らの間に送る剣のゆえである。」(15〜16節抜粋)

 とは、神さまが定めたそれぞれの人の運命のことだ。すぐに思い出すのは、イエスさまのゼツセマネの祈り。

「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」(マルコ14:36)

 イエスさまはいついかなる時も父なる神さまにコミットしていた。ダビデも主にコミットし、「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。」(詩篇23:5)

 と、恵みの杯にコミットした。。

 私はイエスさまの十字架にコミットしているだろうか。恵みを受け取るために、捨てるべきものを手放しているだろうか。否。ユダの諸国民と同じ、人間の言葉や肉の欲求に感化されている。気持ちはもっとコミットしたいのに、行いが伴わず、恥ずかしいです。

 神さま、自分の十字架を思う時、中途半端なコミットを思い知らされます。今日は恵みを受け取る厳しさを思いました。

「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(マルコ8:34)

 神さま、少しでもそうできるようにしてください。

 イエスさまのお名前で祈ります。アーメン

 
 
 

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