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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『御霊の賜物』


 預言と異言について14章では語られていますが、自分自身の経験では預言をした事もなければ、異言をした事もないので、理解に苦しむ箇所なのです。しかし、現在でも異言を聖霊を受けた証拠として、重要視する教団もありますし、異言で話したと証しする方もおられるので、預言も異言も御霊の賜物であることは、頭では理解できます。特に霊的に、激しく祈り、伝道のために身を尽くしたパウロの時代と物質的に恵まれて、食べる物の心配する事のない、祈りの足りない自分とは、正直言って比較できません。しかし、預言とは神の言葉を預かって、信じていない者に語る事とするならば、自分にも経験はあります。


 特に異言に関しては、使徒の働き2章が有名で、五旬節の日に、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。この日、エルサレムに上ってきた者たちの3千人ほどがバプテスマを受けて仲間に加えられた。とあります。


 先日、英語部の礼拝に出席されている日本人の友人が同時通訳装置、Time Kettle w4

というイヤホーン付きの装置を購入されました。なんと$499もするのでかなり高額なのですが、これを付けて英語のメッセージを聞くと、同時通訳で日本語で聞く事ができると喜んでおられます。現代の技術も持って、やっと$499という高額で出来上がった事が、パウロの時代に聖霊によって、メディア語、メソポタミア地方の言葉、エジプトやクレネの言葉に同時通訳されたのです。しかし、この時代では、キリスト教の世界布教のためには、どうしても、あの時に絶対に必要で、3千人もの信者をそれぞれが来た土地に送り込む必要が決定的に求められていたのでした。


 現代と比べると、聖書は何百という言語に翻訳されて、Google Translateで一瞬のうちに自分の言語に書き換えることも可能となり、世界各地に一瞬のうちに飛んでゆくこともでき、もしくはLineでこれほど日本に居る友人たちとも映像を通じて話し合うことも、しかもタダで話せることになって、状況が変わったのではないかと思うのです。異言の必要性は薄れたのかもしれませんが、預言については、これは神のことばを預かることですから、今でもその重要性は変わっていないと思うのです。


 しかし、主イエスはこうも言っておられます。マタイ24章10〜13節「そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。不法がはびこるので多くの人の愛が冷えます。」終わりの日には、多くの偽預言者が出てくるのです。ですから、私たちは、本物の預言者と偽物の預言者を見分ける力を磨く必要があって、それは預言者たちの行動にもよりますが、見分ける力は、みことば、真理を学ぶことによってしか判断できないのであろうと確信するのです。


 Iコリント14:21〜22節「律法にこう書かれています。『わたしは、異国の舌で、異なる唇でこの民に語る。それでも彼らは、わたしの言うことを聞こうとはいない』と主は言われる。それで異言は信じている者たちのためではなく、信じていない者たちのためのしるしであり、預言は信じていない者たちのためではなく、信じている者たちのためのしるしです。」パウロは預言することを熱心に求めなさい。また異言で語ることを禁じてはいけません。と語っています。 さてここまで書いて、異言というのは単に、他国後で語ることだけではないかもと気づきました。私たちクリスチャンは時々、教会用語を使って未信者に話してしまっていないでしょうか。何々兄弟と語りかけたり、主の祈りにしても、初めて教会に来た頃の自分には、おまじないのように、皆が祈っているのが不気味に映ったものです。おなじ日本語でも、話している内容が、相手にまったく通じていないとしたら、それは異言と同じことであって、相手の理解をえる為には、賜物の中で一番大切な愛である。ですから14章のまず初めに、愛を求めなさいとあることにハッと気づいた次第です。


祈り

自分には預言も異言も経験したことはありませんが、どうか信じていない者が信じるための預言を求めて得られますように、導き下さい。アーメン 

文:森 宗孝


 

「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」―13節―


 コリント人への手紙第一13章は、愛の章とよばれている有名な箇所だと言われています。


 パウロは冒頭から愛についての優先順位を語っています。たとえ異言、預言者の賜物があっても、又は、あらゆる奥義と知識、完全な信仰を持っていても愛がないなら無に等しいものであると語っています。コリント教会の人々にはこのような様々な問題をかかえていました。その原因はそれぞれが愛に欠けていたところでした。神を愛し、人を愛することがキリストのからだである教会成長につながっていくことを知ってほしかったのだと思います。今の私たちにもあてはまることです。


「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」―4節―


 ある解説者がこの4節のを自分の名前に置き換えてみると自分はどれほどのない人間かがわかると言われたそうです。私自身もそれは全くその通りで、自分が愛のない人間だと知らされる思いです。そして、今度は、のところに「主イエス・キリスト」と置き換えるとぴったりでした。まさに『「GOD IS LOVE」神は愛です。』の御言葉そのものですね。


「愛は決して絶えることがありません。」―8節(抜粋)―


 預言や知識はすたれます。異言ならやみます。聖書の預言が完全に成就するのは完全なものが現れたら、部分的なものはすたれます。完全なものとは、主の再臨の時、新天新地が実現する時だといわれているそうです。



 天の父なる神さま。今日の聖書箇所をとおして自分がいかに愛のない人であるかを知らされる思いでした。何事においても相手にしてあげることを真心から愛を優先していくことできますように愛の人に変えてください。私たち教会員一人一人が愛を実践していくことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

 12章は賜物について語られている。賜物において、コリントの教会では優劣がつけられていたのだろうか。ねたみや争いがあった教会だったそうなので、そんな働きはいらないとか、あんな働きができないから自分はこの教会の家族になれないなどと感じさせられる状況があったのかもしれない。


 奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。(5-7)


 賜物は才能とは違い、御霊に与えられるものだ。だからすべては個人のものではなく、御霊の働きだ。御霊は一人ひとりそれぞれに、みこころのままに賜物を与えて下さった。私たちが与えられている賜物は神様のみこころがこもっているのだ。すべて神様の御からだを立て上げるのに必要な賜物だ。御霊が私たちのうちで働かれるためにあたえられているものだ。だからどんな働きも尊く、欠けてはいけない大切なものだ。神様はどんな働きも軽んじられることがないようにと願い、それぞれの働きが互いに配慮しあえるようにと望まれている。


 それは神様の栄光が現れるためであると同時に、ここに神様の私たちへの愛を感じる。神の家族として一人としてあぶれることのなく、賜物を与え、神様に仕えるものとして下さっている。一人ひとりが神様にとって大切な存在だよというメッセージを感じる。そして、その大切な存在同士、互いを尊重しあえるようにとして下さっているのだ。


 教会は生まれも育ちも全く違う者たちの集まりだ。年齢幅もあるし、性別も違う。だから考え方もそれぞれだ。そういう者たちが神様の御前に集められ、一つの御からだを立て上げようとしている。コリントの教会で起きたようなことは、油断するとすぐに起きそうだ。行動するのは私たちであるため、つい自分の思いが前に出てきやすく、間違った言動につながりやすい。でも、神様の御心を託されている者同士、御霊の思いに心を沿わせていくときに、おのずと互いを尊重し合えるように神様がすでにデザインしてくださっていると今日教えて下さった。


天のお父様、今日のみことばを感謝いたします。神様は愛をもって私たち一人ひとりに賜物を与えて下さっています。その賜物を大切に扱い、用いることができますように。

そして、教会の家族皆で一つ心となることができますように。それがあなたが望み、喜んで下さる捧げものであることを思わされました。そこにこそ、神様の栄光が現れるのだと思わされました。どうぞ私の心を整え導いて下さい。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン


 
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