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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「神のみこころにそって悲しむ」(11)

 悲しみには、二種類あって、神のみこころに沿った悲しみとこの世の悲しみがあります。

「神のみこころにそった悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じますが、世の悲しみは死をもたらします。」(10)


 この箇所における神のみこころにそった悲しみとは、罪を認めた時の悲しみです。それは悔い改めに導くものになります。対して、この世の悲しみとは、罪を責めるだけで、そこ救いはありません。


 私たちは、聖霊によって罪が示された時には、その罪のゆえに悲しむのです。それはイエスの十字架のもとへと私たちを導く、つまり救いへと導くのです、しかし、この世がもたらす悲しみは、ただ後悔させ、自分を責めるように仕向け、そこに救いはありません。

 

 信仰生活において大切なのは、罪が示された時にどうするか?です。まずその罪が聖霊による示しなのか、この世の示しなのか、本当に悔い改めるべきものは、それとも拒否するものか、どちらかを判別することです。

 そして、もしそれが聖霊からのものであれば、私たちは十字架の元へと進み出て、主を仰ぎ見るのです。そこで罪の赦しをいただくのです。


 天の父なる神さま

 私たちが、罪に対して悲しむのは、聖霊によってなのか、この世によるものなのか、正しく判別し、正しく悔い改めることができますように。サタンの惑わしから守ってください。  

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン           

文:関真士

                    

 

『生ける神の宮』


 私たち信者の目標は、どこにあるかと言うと、主と共に住み、主イエスのみもとで主の民となることではないでしょうか。そして、それはすでに私たちの身に起こっている出来事、つまり聖霊が私たちの内に住まわれている事は、すでに心の中に主の霊がおられるのですから、肉の身体はまだまだ、この世にいるのですが、私たちの魂には、すでに主の霊がおられるので、私たちは「生ける神の宮」ですよ、とパウロはコリント教会に語りかけています。


 5章でも、主が私たちの間に住むという原語は、私たちの間に幕屋をはるという意味ですと言っていますが、ここで出エジプトとこの6章16節を比べてみましょう。

出エジプト25章8節「彼らにわたしのために聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。」と主はモーセに告げられて、民は指示通りに幕屋を造り、その中の聖所に、主なる神が臨在されたのです。

IIコリント6章16節「神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」


 神は霊ですから、ユダヤ民族が天幕を造り、そこのもっとも聖なる清い場所の聖所に、神は臨在されたように、私たちの心、魂のなかにあたかも天幕をはって、罪ある世界から聖別し、もっとも聖なるキリスト、しかもご自分をいけにえとして捧げてくださった十字架のイエスを心におくことによって、そこが最も聖なる場所となって、主なる神が、幕屋の聖所に住まわれたように、私たちの中に臨在してくださる、つまり私たち自身が、神の宮となっていることを理解しなさいと語りかけているのです。


 ですから、私たちは神の宮なのですから、不法な者、悪しき者、闇の者と交わってはいけませんとコリント教会員に忠告しています。15節にキリストとベリアルに何の調和があるでしょう。と書かれていて、このベリアルという言葉が悪しき者、闇の者、悪霊を表しています。(箴言6:12にあります「よこしまな者」新改訳の原語はベリアルです。参考)よこしまな者と交わってはいけない、なぜなら私たちはすでに、主イエスの聖霊が内住している神の宮という、なんと明快なパウロの説明ではないでしょうか。


 神の宮である私たちは、人をだます者のように見えても、真実であり(これは福音を述べ伝える時に、まるで相手をだますように見えることを指しているのでしょうか。)でも真実を伝えているのであり、人に知られていないようでも、よく知られている。10節がクリスチャンへの良い表現ですね「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。」これが私たちクリスチャンなのだと、とても良く主イエスを信じる者を表していると思いました。


祈り

私たちは、主イエスの霊がすでに住んでおられる、神の宮が心の中に建てられている、神聖な聖所があって、主が共におられ、神の子とされていますことに感謝致します。よこしまな者との交わりをさけ、真理のことばを語り、神の力により前進致します。 アーメン 

文:森 宗孝


 

『神の義となる』


 コリント第二の手紙の特徴は、偽クリスチャン、異端の教えが入り込んできたコリント教会へ、パウロ自身の使徒としての権威を改めて示しながら、本当のキリストの教えを伝える、教理を述べる所が、第一コリントの内容である、健全な教会を立ち上げなさいというメッセージとは、異なっている。ですから内容が非常に濃いのです。


 パウロの話は、難しいと思ったのは、私たちだけではありません。使徒ペテロは、ペテロの手紙第二 3章14節でパウロを評して「その手紙でパウロは、ほかのすべての手紙でもしているように、このことについて語っています。その中には理解しにくいところがあります。」ペテロでさえ理解しにくいと思ったのですから、ご心配なく


 さて、この5章では天の幕屋と地上の幕屋が比較されています。モーセが荒野で造るように命じられた幕屋は、主が愛するユダヤの民と一緒に住むために、天の幕屋のいわば模型として地上に幕屋をはって、その中の至聖所に臨在されたという考えで、同時に地上の幕屋は、私たちの地上の肉体であり、約束されている永遠の身体は天の幕屋と表現されています。確かに、ヘブル語で主が私たちと共に住むという言葉は、あなた方のうちに幕屋をはるという言葉なのです。ですから、地上でキリストを知って生まれ変わった私たちは、肉体の幕屋にいるものの、天の幕屋を着ている者となったのだから、17節「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」と表現しているのでしょう。


 異端に対しては、17節抜粋「心ではなくうわべを誇る人」と表現しています。2章では、「サタンに乗じられないようにするためです」とも書かれています。この時代でも、今の時代でも教会に、うわべを誇る人たちが、混じってくることに違いはありません。もともと多くの人が教会に行こうと思ったきっかけは、自分の心が弱かったからではありませんか、サタンはその弱さに働きかけてくるようです。ですから、コリント教会には、パウロはキリストの本当の使徒ではないとか、ユダヤ人信者のなかには、単にキリストを信じるだけでは救われない、律法も守らなければならないとか、さらにはギリシャ哲学の影響なのか、グノーシス主義といって神は霊であるから、霊が一番大切なのであって、肉体を持ったキリストよりも、霊的な天使などを崇拝する教えなどが入ってきていたようです。私たちも田舎町である天草でも、異端であるエホバの証人の教会の方が、プロテスタント教会よりも新しく立派な建物があり、個別訪問で信者数を増やしていました。


 私たちは、どうやって異端、うわべを誇る人を見分ける事ができるのでしょうか。一つは、その人のなす行動に、御霊の実があるかどうかですが、根本的には、聖書の摂理に基づいているかどうかが肝心な点で、それには私たち自身が聖書を知らないと、振り回されてしまう事になります。実にサタンや悪霊の方が、私たちより聖書をよく知っていることを、主イエスの40日間の荒野の断食でも、サタンがみことばを使って、主イエスに近づいてきた事でも明白です。気を付けなければなりません。


 ですから、パウロは21節「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」私たち自身は、神の義となることなどいくら努力してもできない相談ですが、主イエスが私たちと聖なるまばゆい光である、父なる神の間に入ってくださって、私たちは主イエスの背に隠れることによって、私たちの罪が裁かれることなく、盾となって下さった主イエスによって、守られて、神の義とされたのです。


祈り

感謝です、主イエスに感謝です。 私たちの盾となり守ってくださり、父なる神との和解をするための仲介者となって十字架にまでかけられた事にこころから感謝しております。 アーメン 

文:森 宗孝


 
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