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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『死ぬとまた生きるのでしょうか』


 ヨブの嘆きは続きますが、徐々に神の奥義に対する質問に移っていくような気がする14章です。14節「人は死ぬと、また生きるのでしょうか。私は苦役の日の限り、待ちます。私の代わりがやって来るまで。」ここでは、文脈から復活というよりも、輪廻のような生まれ代わりのような意味ではないかと推測するのですが、復活ともとれる文ですね。 そして主に向かって17節「私の背きを袋の中に封じ込め、私の咎をおおってください。」と願っています。しかし、4節「きよい物を汚れた物から取り出せたらよいのに。しかし、だれ一人できません。」と諦めているように見えます。


 しかし、ここで、私たちは幸いにも主イエスのことを思い起こします。主イエスを信じる者は、復活してまた生きるのです。そして私たちの背きという咎がいかに緋くあっても、雪のような白さにしてくださり、罪を覆ってくださいます。そして罪にまみれた私たちの魂を、聖霊の助けによってきよい者として下さいます。ヨブの嘆きにすべて答えてくださる主イエスを私たちは、知っていることに感謝します。実に旧約聖書には、答えのない預言や、答えのない、例えば、何故いけにえをささげるのか、救い主とは何者か。 旧約聖書に答えているのが新約聖書なのです。


 1節「女から生まれた人間は、その齢が短く、心乱されることで満ちています。」確かにその通り、私たちは花のように咲いてはすぐにしおれてしまう人間です。確かに心乱されることで人生は満ちています。そうして、主の日には、さばきの座に連れて行かれて、第二の死を経験することが決められています。第一の死は、自分の朽ちる身体の死ですが、第二の死は、神の裁きによる死という運命が定まっていますが、ああ、ここでもまた主イエスによって、信じる者が第二の死を経験することが無いと約束されている事を、私たちは知っていることに感謝します。


 ヨブが嘆いていること、主は人の希望を絶ち滅ぼされると言うのですが、実にそれは、間違っています。主イエスは、人の希望を滅ぼしに来られたのではありませんでした、むしろ新しい命を与え、霊的に生まれ変わって、永遠の希望をお与えになるために、この世に人の子として来られました。ヨブは子供も、財産も失い、さらに自分の健康も失った激痛の中で、希望は絶たれたと思いましたが、主イエスによって、さらなる希望が与えられることになったことに感謝します。


 この世には、想像を絶する患難があります。終わりの世には、世界全体の人たちが経験するのも、このような大患難でありますが、主イエスは、もう一度再臨されて、私たちの身体まで、復活されて、永遠の命を与えてくださることを教えて下さいました。ヨブも、私たちと同様に復活の身体を与えられて、新たな希望の中で喜びを分かちあう者となることに感謝いたします。


祈り

祈りは聞かれています、ヨブの願いは主イエス・キリストによって聞き取られたことを私たちは、学び、理解していますことに感謝致します。アーメン 


文:森 宗孝


 

『神が私を殺しても、私は神を待ち望む』


 ヨブ記には、友人たちとの論争が3回も繰り返される。ほとんどの論争は神がヨブにバチを与えたのだという因果応報が友人たちの根拠ですが、最後に出てくるエリフだけが、少し違った角度からヨブに問いかけるのです。それはこれからのデボーションにおいておいて、さてこの13章は11章で友人のツォファルのヨブへの批判、「私の主張は純粋だ。」これに対してヨブのさらなる反論となっています。13章2節「あなたがたが知っていることは 私も知っている。私はあなたがたより劣ってはいない。」と友人たちが、見下している態度に反発しているのでしょう。そして、あなたがたは無用の医者とまで言い切っています。


 しかし、繰り返しますが、ヨブの友人たちが7日間も論争の前に、一緒に黙って彼と共に居たことも忘れてはなりません。彼らは、私たち同様、なぜヨブがこのような目にあっているのかを人の目で見て判断しようとしているのですが、このような事態は地上にいるヨブや私たちと全く関係なく、天上での主と、それに対するサタンの挑戦が地上にいるヨブの身に起こっているので、ヨブの今までの生き方や咎とは無縁の所で、苦難が発生していることを私たち、ヨブ記を読む者は知っていますが、ヨブも友人たちも、そのような思いもよらない所に原因があるとは想像すらしていないのです。


 私たちも、病気になった友達や、経済的に追い詰められた知人を持っていないでしょうか。彼らの為に祈ったり、援助を申し出たりした事はありませんか。しかし、そのような苦難の原因を見分ける事は、私たちの力では出来ない事を自覚すべきでありましょう。原因を探そうとして、結果として友達の生き方を分析したりしていないでしょうか。 私たちには、理解できない世界で、患難が与えられているのかもしれません。


 ヨブは友人たちに9節「神があなたがたを調べても、かまわないのか。人を欺くように神を欺こうとするのか。」と強い口調で攻め立てています。そうして13節「黙れ。私に関わるな。この私が話す。私に何がふりかかってもかまわない。」とたんかをきっています。しかし、このヨブの気持ち、苦しみの痛みがひどいことも解りますね。そうしながら、心から主の返答を願っているのです。私に話しかけて下さいと。


どうして御顔を隠して、私のことを敵と見なされているのですか。と心痛の思いとはこのことですね。


祈り

ヨブの言葉に、自分の中にある、追い詰められた時にある苦痛が見えてきます。私たちもそうなんです。なぜ一生懸命生きてきた、私を見捨てるようになさるのですかと主に問われる。しかし、それでも主にすがるように手を伸ばすことを自分が忘れないようにさせて下さい。アーメン 

文:森 宗孝


 

 ヨブ記12章は、友人の中の一人であるナアマ人ツォファルへの応答である。ヨブ記11章を読んでいて、ツォファルの語り方がまるで上から目線的な論じかたであったと思われます。さずがのヨブもひるまずに12章の3節で、「私にも、同じように良識がある。私はあなたがたに劣っていない。これくらいのことを知らない者がいるだろうか。」と語っている。誠実で直ぐな心を持っていて、神を恐れて悪から遠ざかっていると言われている称賛者のヨブが、このようなことを言うなんてと思うところですが、ヨブもかなり苛立ちを覚えていたと思います。ツォファルの思いと自分が求めているものがかなりくいちがっていたからではないでしょうか。


 ヨブはさらに4節~6節で皮肉ったことを述べています。


「荒らす者の天幕には安らぎがあり、神を怒らせる者は安らかだ。神がご自分の手でそうさせる者は。」6節


 ヨブは、このことを、神の恵みの中で自分は安全だと思っている人が、病気や苦難に陥った人々に対して、軽蔑のまなざしを向けて、それを楽しんでいるのだと訴えています。怒りをあらわさずにかなり皮肉った語調です。ヨブも自分が見下されているのを感じていたと思います。自分がクリスチャンでなかったらこのような不条理な出来事はまるで神がいないかのことのような矛盾があると思ったことでしょう。すべては、神のご計画にあるということを知ることは用意なことではないでしょう。クリスチャンであっても、何度も不条理なことに出くわすことがあります。そのような時に果たして私たちクリスチャンが、それが神からでたことなのかを見極めることができるようになれるだろうかと問われるところであります。常に聖書の教えに従っていくことではないでしょうか。


 ヨブ記を読んでいて本当に他者に言葉を述べる時ってとても責任があると思い知らされます。相手がヨブのように、いや、それほどの境遇の中まで落ち込んでいなくても、励ましている自分の言葉が相手にとって慰めの言葉になっているだろうかと、又は、相手を見下されたような話し方になっているのではないだろうかと大いに考えさせられるところであります。



 主をほめたたえます。

天の父なる神さま。今日の御言葉を心から感謝します。他者への思いやり、話す言葉一言一言が生きています。あなたからいただいた大切な体の一部であるこの口、舌を用いて、他者への慰めの言葉を語ることができますように。そして、常にあなたに祈り、委ねていくことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 
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