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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「見よ、神は力にすぐれておられる。神のような教師が、だれがいるだろうか。誰が神にその道を指図したのか。誰が『あなたは不正をした』と言ったのか。神のみわざを覚えて賛美せよ。人々がほめ歌った、そのみわざを。」(22~24)


 エリフと他の3人の違いは、エリフは、神に焦点を当てている所です。確かに3人の友人も神のことを語ってはいますが、彼らの焦点はあくまでもヨブなのです。しかしエリフは、ヨブに向けても語りますが、それ以上に神のことを語っています。そして神を賛美します。私たちは、このエリフの姿勢から学ぶことができます。


 ヨブのような苦難に遭っている人の多くは、その問題に目を向けます。しかし、その問題は、多くの場合本当の問題ではないことがほとんどです。表面に現れている問題の奥に実は本当の問題が隠されていることがあります。

 その表面に見える問題に目を向けている限り、本当の解決は訪れません。一度、そこから目を離し、視点を変えることが必要なのです。

 ヨブの問題は、実際に起こった災難です。そしてその災難がなぜ義人であるヨブに起こったのかというのが大問題です。そしてヨブも友人も、この「なぜ?」の答えを探し始めるのです。しかし、そこに焦点を当てている限り本当の解決は得られません。それはヨブ記の長いやりとりを見れば一目瞭然です。


 エリフしたのは、ヨブの視点を神に向けさせることなのです。なぜ義人のヨブに災難が起こるのかという事ではなく、ただ神に焦点を当てるのです。神が神であることの確かさを証するのです。

 そして神が分かると、かんじがらめになっていた鎖が解けるように、新しい道が開かれていくのです。この後、神はヨブと3人の友人に、彼らが「なぜ?」と問うていたことには一切答えないのです。しかし神が神であることを神ご自身を証するのです。その時、ヨブは「神」の存在に圧倒されるかのようにして納得してしまうのです。


 問題に支配されているような状況においては、視点を変える、神に目を向けることは、本当の解決への道となります。


天の父なる神さま

 私たちがどんな問題に直面しようと、その問題を支配しておられる主に目を向けることができますように、私たちを励ましてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン          

文:関真士


 

『神を待て』


 年少者エリフの聡明なヨブに対する反論が続いている。彼の口調は鋭く、ナイフのようにヨブの心に突き刺さっているのではないかと思うのです。しかしながら、もしも、身体も心も魂も痛んでいる友人を前にして、正論であるとしても、彼の傷に塩を塗るような、反論は神が喜ばれることばでは無いのではないか、とも思うのです。

私たちが苦痛を覚える時には、慰めのことば、優しさがよりもの薬ではないかと思いませんか。しかし、年長者三人との激論の末に、エリフも感情的になっているものの、ここには鋭さ、あなたは神を待て!と大変な真理を語っておられるのです。


 14節「神を見られない」とあなたが言うときには、なおさらだ。しかし訴えは神の前にある。あなたは神を待て。」ここまで来るまで、ヨブと友人達の激しくも、正しい人が患難に会うのは何故なのか、というどの時代でも、人が疑問と思っている問題に、それぞれが意見を述べてきたのですが、ここにきて究極的に、聖なる神を待ち望むこと、造り主に助けを求めながらも、神を待つことが私たちの回答だと聡明なる結論に導かれているのではないかと思います。


 私が親しくしている友人、仏教徒ですがキリスト教にも興味をもっている友人、彼は、幼稚園の先生をしたり、町のために奉仕したりしてきた奥さんをガンでなくされました。ご自分も地域を助ける公職におられたので、どうして正しく生きてきた私たちから、幸せを取り上げてしまうのかと悲しみと同時に、神に対して訴えておられます。このような方々、皆さんも知り合いやご自分のご家族を失った経験をされた方々は、現代でも多くおられるのではないでしょうか。信仰を深めるためと言われても、納得がいきません。苦しみはなかなか去らないのです。


 今年に頂いた年賀状、91歳になる知人が漢文に詳しく、今年の気持ちを表されていて、毎年異なるので楽しみにしているのですが、今年は「去者日疎」去る者は日に疎し、私たちはたくさんの人と出会い、そして別れるものです。別れた人とは日がたつにつれて疎遠となるのは、しかたがないこと。という古詩19首に歌われている漢文です。これとヨブとは直接の関係はありませんが、愛する者が安眠されても、いずれは再会するという希望、そのようにされる神を待てとここではエリフが悟っているのではないか、と思いました。


祈り

私たちには、主イエスの再臨を待つ、神を待つというはっきりとした目標を頂きました。空しい約束ではありません、主イエスが十字架の死から復活されて、私たちにも復活の身体のい約束をされたからです。神を待つことのメッセージに感謝します。アーメン 

文:森 宗孝


 

『私の正義』


 この34章は32章から37章まで続く、年少者エリフの言葉です。そして今までの三人の年長の友人たちとは異なった視点でエリフは、ヨブに語りかけています。いままでの三人は因果応報という考え方でした、それに対してヨブが反論し、その中でヨブが神よりも自分を義とした、自分の正義を訴えたので、エリフが登場したのですが、彼は、神は色々な方法で人を導かれる、時にはそれが懲らしめを伴っていることを、理解して、ヨブに反論しているのです。


 そして反論しているだけでなく、きわどいヨブ批判ともなっています。5節「ヨブはこう言っているからだ。「私は正しい。神が私の正義を取り去ったのだ。」ここにあなたの非があるのだと、そして神が悪を行うなど、不正をするなど、絶対にあり得ない。と手厳しくヨブを批判して、36節「どうか、ヨブが最後まで試されるように。彼は不法者のように、ことばを返すからだ。」とまでヨブのこれまでの反論に対して、もう黙っておれないという雰囲気で、切り返しの論法をしますが、その中には確かに、正論 神は、時には懲らしめを伴って、人を導かれるという、理解を示しているのです。エリフは、神の尊厳を理解している者だと思います。そうして苦しむ者の叫びを聞き入れられている神が黙っておられるなら、御顔を隠しておられることを、何らかの理由でされておられるなら、だれがとがめることができるだろうか。あなたヨブがそれをとがめるとはもってのほかだ。とかなり本質に迫った論争をされているのです。


 しかしながら、エリフの唯一の間違いは、ヨブを不法を行う、悪人と一緒くたにしてしまって、神の沈黙は、ヨブのたかぶりによるためだと断定してしまっていることにも、ヨブに同情の声をかけなかったことにも、彼の判断の甘さがあることも事実です。神は慈悲の神であり、愛なる神であることを理解することができるのは、主イエスが、地上に来られることで、はっきりと私たちが知ることができますが、まだ主イエスを見ていない、エリフですから、私たちが彼の判断を批判することはできませんね。 こうして三人の友人達の意見、最後にエリフの意見が出揃いました。もうじき

ヨブだけでなく、友人たちを含めた皆に対して、神の諭しが登場してくるのです。


祈り

いままでの友人たちとは角度の異なった、エリフの見方に感謝いたします。まさに主なる神は、子供である私たちを、懲らしめながらも愛を持って、導き続けてくださることを、私たちは主イエスによって知りました。感謝いたします。アーメン

文:森 宗孝


 
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