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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『イエスの焼き印(ステグマ)』


 この6章の土台となっているのは「柔和」ではないでしょうか。柔和な心で過ちに陥っている人に接して、助けてあげなさい。この柔和とは5章での説明にある、御霊の実の一つであって、主イエス自身の性格を表しています。ガラテア地区の教会には、ユダヤ教的、律法主義的な教えが入り込んでいたようです、イエスを信じるだけでは足りません、割礼をうけ、モーセの律法を守ることが重要です。確かに、この時代に存在していた聖書とは、旧約聖書だけであり、モーセ5書が重要な役割を果たしていたわけですから、それを土台に語られれば、反論することは難しかっただろうと想像します。


 そのような動揺している信者たちに、パウロは語りかけています。6章の始まりは、兄弟たちで始まり、終わりの18節も兄弟たちで終わっています。私たちはキリストに在って、兄弟となっているのですよ。だから、兄弟が間違ってしまう場合には、柔和な心で接してあげなさい。それがモーセの律法の真髄を語っているキリストの律法(2節)です。キリストの律法とは、神を心から愛し、隣人を愛するという愛の律法ではありませんか。とパウロは問われているのです。


 ハワイには、自分の身体に入れ墨をされている方が多いですね。文化の一部となっているのでしょう。うちのハワイの義理息子も、娘達三人の赤ん坊であった時の足跡を刺青していますが、一番驚いたのは、胸に聖書のみことばが彫ってあるのです。それは、彼が産まれた時に両親からもらった聖句でイザヤ書43章2節なのですが、その中に、わたしはあなたとともにいる..火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。とのみことばが胸に書かれているのですが、かれはなんと、子供の頃からあこがれていた消防士となって勤めているのです。話がずれましたが、私たち信者は、イエスの焼印、この焼印はステグマというギリシャ語で、奴隷に持ち主が、もしくは兵隊が大将の名を焼き付けたことから始まって、烙印と言って、むしろ恥辱の意味あいを持つ言葉となったようです。パウロが、ここで私はイエスの焼き印を帯びている(17節)と言っているのは、事実、彼の身体には鞭打たれ、イエスのように、傷を受けていたこともありますが、同時に私はイエスの奴隷なのですからと強い表現をしているのです。パウロはイエスのように、同胞のユダヤ人から嫌われ、伝道旅行では、すべての町々で迫害を受けましたが、それは主人イエスの焼き印を押されたのと同じですと宣言されているのです。


15節「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」私たちが主イエスによって、聖霊によって新しく生まれ変わったかどうかが、一番重要なことなのですよと諭しているのです。


 このパウロの兄弟たちとの呼びかけは、ガラテヤ地区の教会員だけではなく、現代の私たち信者に対する呼びかけでもあるのですね。あなたがたは主によって、新しく生まれ変わって、イエスを自分達の主人とする奴隷、焼き印を押されているのですよ。主人の言いつけは守らなければなりません。主人であるイエスはイエスの愛の律法を私たちに言いつけました。私たちは柔和な心をもって、兄弟達を助け合いましょう。と結びのことばをくれています。


祈り

 私たちは、主イエスに属する、心にイエスの焼き印を押された者として、新しく生まれ変わった者となったとはいえ、そのために迫害にあい、この世に嫌われているでしょうか。そうだとしても、それでも兄弟たちを助け、支える柔和な心をくださいましたことに感謝いたします。アーメン 

文:森 宗孝


 

Happy Easter!

 主イエス・キリストのよみがえりを心から感謝します。


 「キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰です。」6節


「愛によって働く信仰」とてもいい響きですね。パウロはガラテヤ人への手紙5章で大切なことを述べています。私たちが「愛によって働く信仰」に歩んでいけるようになるにはどうすればいいのか、それは16節で語られています。

「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」16節

 パウロのいう御霊とは、9つの御霊の実をたとえています。

「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」22,23節

 愛、喜び、平安は、神からくるものです。寛容、親切、善意は、他者に対してのものです。そして、誠実、柔和、自制は、自分に対してのものです。これが、愛によって働く信仰の歩みの基となるのです。私たちは、イエス・キリストの十字架の血潮によって罪から解放されて、さらには、神との和解を成し遂げさせてくださいました。この無償の愛を受けた私たちは、今度は他者をも受け入れる愛へと変えられていくのです。神が愛しておられることを、赦してくださることを私たちを通して、他者にも知ってほしいこと、そしてその人たちが神の愛に生きていけるように祈り支えていけるようになることです。

「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」コリント人への手紙第一 13:13


 ハレルヤ!主の御名を心から賛美します。今日は、イエス様が復活されたイースターを祝う日です。私たちの罪のために十字架にかけられ、三日目によみがえられ、今も父なる神の右の座におられて私たちのために執り成して下さっていることに心から感謝します。私たちが御霊によって歩く愛の信仰の働きができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン         


 

「あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。」(7)


 イエス様は律法に縛られている私たちを買い戻し自由にするためにいらして下さった。神様の愛の元、本来の自分を生きるようにと自由を与えて下さっているのだ。にも関わらず、ガラテヤの人々はまたもや律法主義に戻ろうとしていた。


 パウロはガラテヤの人々に、キリストによって自由を得たのだから、逆戻りしないでほしいと必死に訴えている。あなた方に会って口調を変えて話せたらいいのにというほど、心かき乱されて訴えているのだ。それほどまでに彼らを愛し思っているのだ。


 それは神様の心と同じだと思う。せっかく自由になったのに、どうしてまた元の状態に戻ろうとしているのかと、ひどく悲しんでおられたに違いない。それは、私たちの解放のための主の十字架を無意味なものとしてしまう行為だからだ。


 ガラテヤの人々の間には律法主義の教師がいたり、それまでの習慣もあるだろうし、生活環境が律法主義的だったのだから、その影響を受けることはたやすい。それなりの強い意志をもって立っていないとすぐ戻されそうになるのも理解できる。現代でも、うっかりすると律法主義に引っ張られる。


「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神の御心は何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」(ローマ人への手紙12:2)


 パウロは自分のようになってほしいとこの手紙で書いている。熱心な律法主義者だったパウロが一夜にして、心の一新によって変えられたのは神様の賜物だと思うが、私も受けた恵みを見失わないように願い、祈っていきたいと思った。


天のお父様、主の十字架を感謝いたします。わたしたちを愛し、わたしたちとの関係回復を望んで下さり、ありがとうございます。律法主義的な考え方に惑わされず、神様が与えて下さっている愛と恵みを日々しっかりと受け取ることができますように。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン


 
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