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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「わたしは、心の中で行った。『さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。』しかし、これもまた、なんと空しいことか。」(1)


 4節から8節に記されているように、ソロモンは栄華の限りを尽くしました。おおよそ人間が求めるすべての欲求を満たしました。物欲、性欲、食欲、名誉欲、知識欲、さらに知恵…。「そして私は偉大な者になった。」(9)と告白しました。


 しかし彼は告白します。

「見よ、すべてが空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」(11)


 この伝道者の書は、虚無主義を謳う書なのでしょうか。あるいは快楽主義なのでしょうか。そのどちらも違います。

 この書の最後の結論に記されているのは「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(12:13)ということです。


 神を見失い、まるで神がいないかのような人生においては、すべてが空しいのです。人間は神から離れるとき、虚無に陥るしかなくなるのです。結局、自分の人生に、神がいるのかいないのか。正確には、神がいることを認めるか認めないかです。


 神と共に歩む人生は、この空しさからの自由です。真に満たされた人生とは、神と共に生きるときに与えられるものです。


 天の父なる神さま

 神がいない世界、考えるだけで怖ろしいです。神が今も、そしてこれからも私たちと共にいてくださることを感謝します。

 あなたは、私の空しい心を、あなたの愛で満たしてくださいました。あなたこそ、私たちのすべてです。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン                                                   文:関真士


 

『空の空』


 日本史にでてくる、豊臣秀吉は、庶民が憧れる太閤様でした、貧しい身から出世して、天下を取るまでのぼりつめて、人の目には、栄華をきよめた一生と映るのです。しかし彼の辞世の句は「露とおち露と消えにし我が身かな浪速(なにわ=大阪)のことも 夢のまた夢」 露のように消えてしまう身よ、あの華やかな浪速の出来事さえも、いまでは、すべて夢のまた夢、という世を去る太閤様の最期の句でした。確かに私たちの築き上げた財産、知識も、喜び多かった人生も死んだら、おしまいという虚しさに溢れる辞世の句です。


 今日の伝道者の有名な1章1節「空の空。伝道事は言う。空の空。すべては空。」これは確かなことでしょう。これらこの世の富は、人が自分の最期を迎える時には、その人の霊魂を満足させることは出来ないのです。


 そうであれば、人生に失望すべきでしょうか。いいえ、この世において、ただ一つ空ではない者がいるのです。そこに永遠のいのちがあり、知恵が満ちあふれ、永久の宝、主イエス・キリストと十字架があり、これだけは、空の空ではないことに感謝しています。


 主イエスは、この世の土台、変わる事のない岩となって下さいました。ローマ人への手紙9章33節「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。この方に信頼する者は 失望させらるることがない。


 この伝道者の書の著者については、いろいろと詮索されていますが、やはりソロモン王であったと思います。共同訳聖書では、コヘレトの言葉とありますが、コヘレトとは特定の人の名前ではなくて、ヘブル語で、集会を召集する者、つまり伝道者という意味なのです。


 さて、この一章12節でも、私はエルサレムでイスラエルの王であったと明言しているからです。豊臣秀吉、太閤様のように、人生の最善の生き方を経験した後に、自分を振り返ってみて、その虚しさに気づいたのかもしれません。13~14節では、知恵によって求めたけれども、すべては空しく、風のようだと空虚感が漂います。しかし、この書は悲観的な書のように見えますが、実は文脈を追ってゆくと、やがて行き着く結論は、人生の大きな意味は、実は神の審判と来世への希望に繋がるというところに行き着くのです。けっして人生悲観論ではなくて、現世に対して、人生を自分だけのものとして生きると、それこそ空の空となることに目を正面から見据えておいて、やがて神のみこころが全てである結論に向かおうとしていることを覚えながら、伝道者の書を読みつづけましょう。


祈り

 私たちの人生の歩みの中で、時には自分の人生に意味があるのだろうかと悩むこともありますが、たとえ親も亡くなり、愛する者も失っていて一人ぼっちになったとしても、私たちには、心の中に常に微笑んでくれ、暖かさを与えてくれる、主イエスの霊、聖霊が内住してくださることに心から感謝いたします。アーメン 

文:森 宗孝


 

『バテシェバ』


 ダビデ王の姦淫相手であるバテ・シェバの人柄ついては、聖書はあまり多くは語っていないので、想像するしかないのですが、サムエル記第二11章に、ダビデ王が王宮の屋上から、からだを洗っている非常に美しい女性を見たところから、始まり、彼女が妊娠したことをダビデ王に告げる。悪妻説では、彼女がわざとからだを洗っている姿を見せたのではないか、と言う説と、いやいや、この時代では、王の命令は絶対で、断ることはできない状況であったとの解釈の方が妥当かもしれません。そして列王記第一1章では、ダビデ王の世継ぎのことで、預言者ナタンに助言をして、ソロモンを王として迎えるように手配した姿を見ると、彼女の賢さに気づきます。


 なぜこのバテ・シェバの話をしているのかと言うと、箴言最後の31篇の1節で、誰がこの箴言の著者なのか、2説あるのです。「マサの王レムエルが母から受けた戒めのことば。」これがソロモンであったという説と、別の地域の王とする説ですが、レムエルというヘブル語は、神のための者という意味で、マサは、託宣とも重荷とも読めるので、自分は、すべての流れから、これは、ソロモン王であったとしています。そうすると、ソロモン王が母である、バテ・シェバから受けた戒めのことばとなるわけです。


 2節「あなたの力を、女たちに費やしてはいけない。王を滅ぼす者たちに、歩みを委ねてはいけない。」はっきりと母から戒めを受けているのに、ソロモン王は妻が7百人、側女が3百人いたとあります。

 それが、王を滅ぼす原因ともなったのです。バテ・シェバは自分のことを、脳裏において戒めを語ったのかもしれません。10節「しっかりした妻をだれが見つけられるだろう。彼女の値打ちは真珠よりもはるかに尊い。」12節「彼女はその一生の間、夫に良いことをし、悪いことをしない。」20節「苦しむ人に手を差し出し、貧しい人に手を差し伸べる。」そして30節「麗しさは偽り。美しさは空しい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。」恐らく、自分のことを思いつつ、最初の息子を打たれてしまった悲しさもあったのでしょう。

 最愛の息子ソロモンに人生の忠告をした内容が、この最後の31篇、しかし、姦淫という罪は、主が決して赦すことのない罪でありますから、ソロモン王が、母の忠告に反して、政治的結婚から始まって、異教の神々がエルサレムに持ち込まれ、王国を滅ぼす結果となってしまった歴史は、罪の根深さを語っているのかもしれません。


祈り

 私たちも、心から主を恐れる者でありたいと思います。まず何よりも求めるのが、神の義であるならば、罪の裁きがあることは明白です。しかし、私たちには十字架で私の罪の身代わりになってくださった、主イエスがおられることで、恐れはありますが、悔い改めの赦しの道が開かれたことに感謝致します。

アーメン 

文:森 宗孝


 
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