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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「ツロについての宣告。タルシュシュの船よ、泣き叫べ。ツロは荒らされて家もなく、そこには入れない。キティムの地から、それは彼らに示される。海辺の住民よ、黙れ。海を渡るシドンの商人はおまえを富ませた。大海原で、シホルの穀物、ナイルの刈り入れがおまえの収穫となり、おまえは諸国の商いの場となった。「シドンよ、恥を見よ」と海が言う。海の砦がこう言っている。「私は産みの苦しみをせず、子を産まず、若い男を育てず、若い女を養ったこともない。」このうわさがエジプトに達すると、人々はツロのうわさを聞いて、激しくもだえる。海辺の住民よ、タルシュシュへ渡って、泣き叫べ。これが、おまえたちが誇りとした町なのか。その起こりは古く、人々はその足で遠くに行って移り住んだのに。だれが、王冠を戴くツロに対してこれを図ったのか。その商人は君主たちで、その貿易商は地で最も尊ばれていたのに。万軍の主がそれを図り、すべての麗しい誇りを汚して、地で最も尊ばれている者をみな卑しめられた。娘タルシュシュよ、ナイル川のように自分の国にあふれよ。もうこれを制する者はいない。主は御手を海の上に伸ばし、王国を震わせた。主はカナンについて命令を下し、その砦を滅ぼし尽くした。そして言われた。「もう二度と喜び躍るな。虐げられたおとめ、娘シドンよ、立ってキティムに渡れ。そこでも、おまえは休めない。」見よ、カルデア人の地を。この民はもはや存在しない。アッシリア人がこれを荒野の獣のものとして定めた。彼らは、自分の見張りやぐらを立て、宮殿をかすめて、そこを廃墟とした。タルシュシュの船よ、泣き叫べ。おまえたちの砦が荒らされたからだ。その日になると、ツロは七十年間の間、忘れられる。一人の王の生涯ほどの期間である。七十年が終わると、ツロは遊女の歌のようになる。「竪琴を取り、町を巡れ。忘れられた遊女よ。うまく弾け、もっと歌え。思い出してもらうために。」七十年の終わりに、主はツロを顧みられる。彼女は再び遊女の報酬を得て、地のすべての王国と、地の面で淫行を行う。その儲け、遊女の報酬は、主の聖なるものとなる。それは蓄えられず、積み立てられない。その儲けは、主の前に住む者たちが食べて満ち足り、上等の衣服を着るためのものとなるからだ。」


 ツロは貿易で非常に栄えた国で、当時の世界経済の中心でした。人々は「お金があるから安全」「商売がうまくいっているから大丈夫」と考えていたようです。神はこのツロに対して、繁栄が終わることを告げられます(9節)。商売や富そのものが悪いわけではありませんが、神を忘れ、富に頼り、それを自分たちの誇りとしていたことに、彼らの問題がありました。ツロは主のさばきによって一度衰えますが、やがて回復し、再び富を得ます。しかしそれらの富は彼らの蓄えにはならず、その報酬は主の聖なるものとされ、主の前に住む者たちのために用いられることが宣告されました(18‐19節)。


 ツロのように、お金や仕事といった経済的安定が、安心の土台になっていないかを問われたように感じました。ヨブ記1章21節のみことばが思い出されます。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」神への信頼が安心の土台となっているなら、たとえすべてを失ったとしても、「私は主の御名をほめたたえます」と賛美できるのだと思いました。


祈り:愛する天のお父さま。イザヤ書23章を通して、天地を創られ、すべてを支配されるあなたに愛されている者が、この世の富に左右されてはいけないと戒められた思いです。主よ、あなたが私の安心の土台です。みことばを信じる信仰を与えてくださり、本当にありがとうございます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:アイゾン直子


 

「その日―万軍の主のことば―

『確かな場所に打ち込まれた杭は抜き取られ、折られて落ち、

その上にかかっていた荷も取り壊される。

―主はそう語られた。』」25節


 25節の御言葉が心に留まった。打たれた杭が抜き取られ、折られて落ち、上にかかっていた荷もとり壊される。なんという厳しいさばきの滅びの宣告でしょうか。


『確かな場所に打ち込まれた杭』とは、ユダヤ人のことだと言われています。彼らは確かな場所に打ち込まれた杭なのに、彼らは抜きとられ、折られて落ちてしまいました。どうしてそういうことになったのかというと、救い主イエス・キリストを受け入れなかったからです。


 そこを読んでいて、ヨハネの福音書1章11節の御言葉が思いだされます。

「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方をうけいれなかった。」1-11

 イエス様は、ご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れませんでした。確かな場所に打ち込まれた杭を拒絶したのです。救いは彼らから取り去られてしまったのです。救いを受け入れなかった為に、彼らは神の子としての特権を与えられなかったのです。恵みを前にして、打たれた杭が抜き取られて、折られて落ちてしまったのです。

 イエス・キリストこそ私たちの救い主であるということを信じて、受け入れなければ、私たちも彼らと同じように確かな場所に打ち込まれた杭が抜かれ、折られて落ち、その上にかかっていた荷も取り壊されてしまうということになるのです。



 祈り

  愛する天の父なる神様。あなたの御名を心からほめたたえます。2026年の新たなる年を迎えることができて感謝します。2026年は私たちクリスチャンが、あなたからいただきましたそれぞれの賜物を用いて、あなたの栄光を表すことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


 
  • hccnichigo
  • 2025年12月31日

 13章から22章は、読解するのに難解な箇所が続きますが、これらの章には、諸国への宣告が記されています。この21章では、バビロン、ドマ(エドム)アラビアに対する宣告が記されています。 


「倒れた。バビロンは倒れた。その国の神々の、すべての刻んだ像も、地に打ち砕かれたと。」(9)


 超大国のバビロンでさえ倒れるという、神の公正と義が現わされています。それにしても、このような預言を語らなければならないイザヤの気持ちはどのようなものでしょうか。

 他人事のように機械のように語るのでしょうか。無感情で無表情で語るのでしょうか。諸国に対する怒りや侮蔑、嘲りのような思いで語るのでしょうか。

 3節には「それゆえ戦慄が私の腰に満ち、子を産む時のような苦しみが私をとらえる。私の心は乱れて、聞くことができない。」と記されています。

 イザヤは、恐れて苦しみ心乱れているのです。神のことばを語るということは、神の心を感じとることになります。生身の人間であるイザヤにとってそれは大きな負担なのです。

 

 しかし、それでもイザヤは神のことばを語ります。少し早いですが、イザヤ40章以降、預言の内容がガラリと変ります。救いと希望を語り始めます。その時イザヤは、どんな気持ちだったでしょうか。神の裁きの宣告を語ることで終わらず、その裁きの先にある救いについて語るのえす。43章4節で「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と語った時、イザヤの口は震えていたのだと思います。


 神の裁きは、救いのための裁きです。諸国への宣告を読みながら、改めて神の救いの確かさを思いました。

 

  天の父なる神さま

 神の公正と正義の前で、私たち罪人は震えおののきます。しかし、そんな私たちのために、神は救い主イエスをお与えくださいました。

 このイエスの福音をこれからも宣べ伝えることができますように力をお与えください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン                                           文:関真士


 
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