top of page
Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

【お知らせとお願い】
​ メールアドレスを登録して頂ければ、
 新規ブログ更新毎にお知らせメールが届きます。​
 この機会に、是非、ご登録をお願い致します。​

ご登録ありがとうございました

 *登録の手順) アドレス入力 → 「>」を押下

『すべては神のみわざ』


 ヨブ記、箴言、雅歌、伝道者の書は、そろって知恵文学と言われる。本物の知恵は何かという、核心を様々な方法で追求しているから、知恵文学なのだと思われます。この8章では、すべては虚しい、空の空と表現している著者、ソロモンが、徐々に知恵の核心に近づいて行きます。17節「すべては神のみわざと分かった。人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して捜し求めても、見出すことはない。知恵のある者が知っていると思っても、見極めることはできない。」人生の栄華を極めた、ソロモン王が至ったのは、すべては神のみわざであるという知恵でありました。


 私たちは往々にして、キリスト教一辺倒になってしまいますが、日本はまだまだ仏教中心ですね。そして仏教の中でも特に、浄土真宗本願寺派は792万人、真宗大谷派は791万人、浄土宗は602万人、そして他の仏教宗派を合わせると実に、日本の人口の7割近くが、実際に信じているかは別にして、仏教徒となります。浄土宗の開祖、岡山の武士の子として生まれた、法然上人が、1212年2月27日、亡くなる二日前に、一枚起請文(きしょうもん)を書いているのですが、要約すると ”いくら学問をして、念の心を悟った念仏にあらず、往生極楽のために、ただ単に、南阿弥陀仏と、疑いなく往生すると思い定めて、称えることだ。” それまで神学を極めるべきとの考えから、単に南無阿弥陀仏を称えるだけとの教えに、庶民は歓迎して信徒になったのです。 これは、私たちの信じて救われる、祈りに通じているのです。しかしながら、決定的な浄土宗とクリスチャンの違いは、誰に対して祈るのかという点ではないでしょうか。私たちは、創造主たる父なる神に対して、神の御子、ナザレ村のヨシュア(イエス)の名によって祈ります。はっきりとした目標、人としてこの世に来られた主イエスのことを、見てはいませんが、彼の行いを呼んで、心で聴いて、実際に会ったように、生きておられる神を信じています。ここに違いがあるのです。


 イエス・キリストが救い主であることを信じるのが、キリスト教であり、それを伝えるのが伝道、そして、なぜイエスが神の子、人の子かを学ぶのが、聖書の学びです。この伝道者の書には、イエスの名前こそ、出てきてはいませんが、すべては神のみわざと理解する知恵は、著者ソロモンに神から与えられたのです。 12〜13節「悪を百回行っても、罪人は長生きしている。しかし、私は、神を恐れる者が 神の御前で恐れ、幸せであることを知っている。 悪しき者には幸せがない。その生涯を影のように長くすることはできない。彼らが神の御前で恐れないからだ。」すべての営みには時とさばきがある、罪による死、そして神の御座の前でのさばき、これも知恵によって理解したことでしょう。


祈り

どうか私たちが、自信をもってイエスが唯一の救い主であることを、まだ主イエスを知らない方々へ伝えることができますように、私たちの信仰を強めてください。力を与えて下さい。 アーメン

文:森 宗孝


 

『この地に正しい人は一人もいない』


 そもそも、伝道者の書もその前の箴言も、ソロモン王が著者とするなら、内容が、それぞれ似たような「知恵」について二つの書とも描かれているのに、それが一つにまとまらずに、なぜ二つの書に分かれたのだろうか。それは、箴言がソロモン王の若き日に、神の知恵の素晴らしさ、人生はどう生きるべきかを教えたのに対して、伝道者の書は、ソロモン王の晩年、自分自身は数々の間違いを経験し、苦い思いをした後に、結論として、神なき知恵の虚しさの悟り、人はなぜ生きるのか、神を恐れることがすべての土台となっていることを悟った書が伝道者なのです。


 そのような視点で見ると、例えば2節「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。生きている者が それを心に留めるようになるからだ。」という一句は、晩年のソロモン王の悟りを表しているように、思うのです。14節「順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。これもあれも、神のなさること。後のことを人に分からせないためである。」熟年層になった、自分にとってなんとなく、理解できるようでもあり、納得できないようでもある一句です。


 そうして、人はなぜ生きるのかを説いた知恵満ちたソロモンが、たどりついたこの世に対する結論は、実に使徒パウロの視点と同じく、20節「この地上に、正しい人は一人もいない。善を行い、罪に陥ることのない人は。」これはローマ書でパウロが描いているローマ3章9〜10節「私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシャ人も、すべての人が罪の下にあるからです。次のように書いてあるとおりです。「善人はいない。一人もいない。」ですから、善人のいない私たちは、聖なる神を求め、主による救いが必要となるわけです。


 知恵で満ちたと言われるソロモン王が、晩年に悟ったことは、私は知恵ある者になりたいと願ったが、とても及ばず、遠く深い神の知恵に、自分の無知が分かったということなのです。私たちも、聖書を学び、主の意図を理解したように、一瞬でも思うのですが、実はまったく理解していないことを悟らされる、不思議な矛盾ですが、自分自身が、いかに小さい者であるかを思い知らされる、この7章であります。


祈り

自分がいかに無知であることが分かったとしても、そのような自分を愛してくださる主に感謝いたします。どのような者でも、罪のない者がこの世におりませんが、父なる神が、われわれの似姿に造ろうとされ、命の息吹をかけられた人間というだけで、欠点も罪も持つ自分を、すでに愛して下さっていることを心から感謝致します。 アーメン 

文:森 宗孝


 

「もし人が百人の子どもを持ち、多くの年月を生き、

 彼の年が多くなっても、彼が良き物に満足することなく、

 墓にも葬られなかったなら、

 私は言う。彼よりも死産の子のようがましだ。」3節


 これは、ソロモン自身のことを言っているのではないでしょうか。

栄華を極めたソロモンは、多くの子どもたちに恵まれて、100歳まで生きてきました。そのことに満足しなければ、この世に生をあずかることなく死産で亡くなった子のほうがましだと厳しく語っています。


 与えられた何事においてもそれがたとえ小さな事でも、感謝して満足しなければ何にも与えられなかったほうがましだということではないでしょうか。今の私たちは最低限にもある程度の生活が与えられています。そのことにどれだけ満足しているだろうかと思わされるところであります。


 中近東の山里離れた奥深い所で生活している家族のドキュメンタリーを見ました。一人の婦人が家族の為に何キロも離れた所に果物を捜しに行きます。平地から険しい岩だらけの山を登って、あきらめずに進みます。すると前方に大きな木を見つけます。その木にはたくさんの果物が枝もたわわにぶら下がっていました。その婦人は、走りながら天を仰いで主に感謝し木の所にたどり着きました。そして、果物を手で摘み取りながら終始笑顔で、主に感謝している姿に涙がでてきました。


 私たちにとってそのようなことはかけ離れたことかも知れませんが、彼女に与えられた果物に、彼女が感謝する姿こそ神が喜ばれることだと思います。たくさんの果物を収穫して重いリュックサックをかかえて帰路につきました。洞窟の中で待っていた家族が仲良くその果物を美味しそうにほほばっている姿が感動的でした。これを見た時に、高いお金をだして高価なものを買って食べても、そのことに心からの感謝、満足がなければ人生に空しさがつきまとう道を歩き続けるのではないかということでした。


 愛する天の父なる神さま

私たちは、たくさんのいろんな物をあなたから与えられています。たとえそれが多くとも少なくとも絶えず感謝を持ってそれぞれに満足することができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 
bottom of page