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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。あなたの受ける分を七、八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかをあなたは知らないのだから。濃い雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。木が南風や北風で倒れると、その木は倒れた場所にそのまま横たわる。雨を警戒している人は種を蒔かない。雨雲を見ている人は刈り入れをしない。あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様に、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたは一切を行われる神のみわざを知らない。朝にあなたの種を蒔け。夕方にも手を休めてはいけない。あなたは、あれかこれかどちらが成功するのか、あるいは両方とも同じようにうまくいくのかを知らないのだから。光は心地よく、日を見ることは目に快い。人は長い年月を生きるなら、ずっと楽しむがよい。だが、闇の日も多くあることを忘れてはならない。すべて、起こることは空しい。若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。あなたの心から苛立ちを除け。あなたのからだから痛みを取り去れ。若さも青春も空しいからだ。」


 「パンを水の上に投げる」とは、ナイル川のような大きな河川の氾濫で水没してしまった田畑にも、農夫は通年通り種を撒く、という中東の慣習から来ているたとえだそうです。水没した田畑に種を蒔くなど無駄でしかないように思いますが、どんな状態であれ、蒔いた種は必ずいつか、豊かな実りをもたらすことを農夫たちはよく知っていました。人生や伝導もこれと同じで、一見無駄に見えるようであって、やがて豊かに実ることを信じて、私たちもまた水の上にパンを投げていると言います。思い通りには行かないことについて著者は、日々移りゆく風や雲については、気にすることはないと励まします(伝道者の書11:3-4)。  農夫の生活と同じく、全ての条件が整うまで待っていたら、伝道など到底、始められないのです。神は御心にかなった時と方法で実りを持たせてくださいますから、安心してみことばの種を蒔いてまいりましょう。


 愛する天のお父さま。すべてのことに無駄はなく、私のような小さき者の働きでさえも、あなたご自身の計画のために用いてくださっていることを知りました。ありがとうございます。風向きや雲行きを気にして、一喜一憂してしまいますが、すべてはあなたが良いものとしてくださること、ありがとうございます。イエス・キリストの御名によって感謝して祈ります。アーメン

文:アイゾン直子


 

「少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い。」1節(抜粋)


「知恵は人を成功させるのに益になる。」10節


 伝道者の書10章は、「知恵のある者」と「愚かな者」について述べられています。


 ソロモンは、1節の御言葉で語っています。人の小さな愚かな出来事で、人を傷つけたり、争いをおこしたりしてすべてを台無しにしてしまうということです。私たちの生活の中で起こりうることではないでしょうか。私たちの人生の成功の基となるのは神の知恵だと10節で語っているのです。


 斧が鈍くなったときは、刃を研がなければならない。漁師が浜辺でコツコツと網を繕っていることなどもそうです。鈍くなった刃を研がなければもっと力がいる、そして、網を繕っていかなければ魚が逃げていく。このようなことは、それぞれに与えられた知恵ではないでしょうか。その知恵は、神様からあたえられた賜物といえると思います。その賜物を磨いて有効に使っていくことが益となっていくことではないでしょうか。


 大工さん、板前さん、漁師さんたがコツコツと自分たちの道具を磨いている光景をよく見ることがあります。彼らは、神から与えられた知恵を有効に使いきっています。武器ともいえる道具を磨けば磨くほど、繕えば繕うほど使用するときに益となっていくことを知っているからです。


 私たちも神様からそれぞれに違う信仰の知恵の賜物が与えられています。それを磨いていかなければ益となっていきません。信仰の知恵の賜物が益となっていくには、神を恐れ、神に従っていくことだと思います。



 愛する天の父なる神さま。あなたの御名を心からほめたたえます。

今日の御言葉を感謝します。私たちがあなたの知恵によって信仰のみちが開かれてそれが益となっていきますように導いてください。あなたからいただきました私たちの違う賜物を磨いていき、それがあなたに用いられるものへとならしてください。そして、だれもがみがかれた賜物をあなたの栄光のために大胆にあらわすことができますように私たちを用いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

 

 特に心にとまったのは10節。


「あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、自分の力でそれをせよ。」(10)


 何もしないで生じる後悔と何かをして生じる後悔と、どちらがいいだろうか。まあ、どちらにしても後悔はしたくないが、前者はその後悔から学べることは少ない。後者の方は、行動したことにおいてそれは経験として蓄積され将来への良い糧となるだろう。

 十分に考えて、調べて、そして祈って、「出来る」と思ったら、まずやってみることだ。もちろん動機の確認は必要だ。それが神を愛し、人を愛することに結びつくかどうか、それが見分けるポイントになる。ちょっと神さま、ここは目をつむって、と思ってしまうような事であるなら、それは止めた方がいい、それこそ後悔することになる。


 ある精神科医が、日本の若者の将来を考えたときに、これだけは変えなければならないという日本の文化を指摘していた。それは、失敗してもやり直せる文化、セカンドチャンスが認められる文化だという。実際には、日本の社会には、失敗を認めない一度失敗したら終わりかのような文化的雰囲気がある。

 だから、丁寧に良い仕事をする動機が「失敗しないため」という否定形である場合が多く見られる。そうすると、失敗はしない代わりにチャレンジも出来ないということになってしまう。

 そして、人間はどんなに頑張っても失敗しないことはない、多かれ少なかれ失敗はするものだ。その失敗によって自分が否定されてしまうなら、その社会は恐れに支配されることになる。

 

 この御言葉は、そんな縮こまっている者たちに、失敗することを恐れず、まず行動してみようと発破をかけてくれる。ペテロのように大失敗した者に対して、イエス・キリストは何度もチャンスを与えた。失敗した者を責めることなく、むしろ立ち直れるように祈り、励まし、力を与えて、失敗を乗り越えさせてくださった。

 社会の中に、そして教会の中に、失敗を恐れない、失敗した者を裁かないでむしろ励ます、そのような文化が造られていったら素晴らしい。


 天の父なる神さま

 私たちは失敗することを恐れる者たちです。でも行動すれば失敗するリスクも生じます。主よ、どうか私たちが失敗することを恐れず、また失敗した者を裁かず、何度でもチャレンジしていけるように励ましてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン          

文:関真士



 
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