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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 詩篇100篇、この賛美がすぐに心に浮かびます。


「感謝しつつ 主の門に 賛美しつつ その大庭に入れ 主に感謝し

 御名をほめたたえよ。」(4)


 礼拝とは、広い意味では、私たちは礼拝者として神に造られているということです。だから私たちは常に神を礼拝するのです。神を想い、祈り、賛美し、御言葉を読み、日常生活の中で私たちは常に礼拝者なのです。

 また狭い意味では、主の復活した日の朝、日曜日の主日礼拝、これを「礼拝式」と呼びます。

 私たちは、常に一人の礼拝者として生きています。同時に特定の場所に、時間に、共に集まり、共に礼拝式を持つということをします。

 それは、旧約時代も新約時代も、人々は「共に集まって」礼拝することをしてきたからです。共に集まるということ、これは霊的本能とも言えるものです。


 礼拝式に関しては、コロナをきっかけにオンライン礼拝ということが始まりました。これも時代に合った神の恵みだと思います。しかし、共に集まるということの意義が薄まるわけではありません。

 これは一人ひとりの霊的感覚なのだと思いますが、共に集まって礼拝を捧げることでしか得られない恵みの体験が確かにあるのだと思います。この恵みはオンライン礼拝と比較するものではありません。神の恵みはその時その時に最善のものが与えられます。オンラインで礼拝している方々は、そこでしか味わえない恵みがあります。同じように、共に集まることによってしか味わえない恵みもあります。


 いずれにしても、主日の礼拝式は、私たちの信仰生活の始まりであり終わりです。ここから新しい人生が始まり、そしてやがて新天新地における永遠の礼拝に至るのです。

 教会の実際の営みにおいて、礼拝式がすべての営みの中心です。ここから始まり、ここに帰結します。礼拝式が真に神に喜ばれる捧げものであるとき、その教会は真に祝福されるのです。

 この詩篇100篇に描かれている礼拝の姿、この姿こそ礼拝そのものです。毎週の礼拝式が、文字通り、この詩篇100篇そのものであったらどんなに素晴らしいことでしょうか。

 

 天の父なる神さま

 私たちは、礼拝者として造られました。だからあなたを礼拝している時が一番幸せです。日々の礼拝者としての歩みを祝福してください。主日の礼拝式を祝福してください。まさに詩篇100篇の礼拝を捧げることができるように、私たち一人ひとりを整えてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン           

文:関真士


 

『大いなる主』

 

 私たち日本人が、なかなか聖書の中の神と聖なる民、イスラエル民族との関係を理解しづらい理由の一つは、聖書は契約の書であることです。日本人には契約という概念が薄いのではないでしょうか。 


 この99篇7節にある「主は雲の柱から語られ、主のさとしと、おきて」とありますのは、モーセが会見の天幕の入り口に、雲の柱が降りてきて、そこから主がモーセに語った時の様子を表しています。その時に主は、わたしと契約を結ぼう(出エジプト34章10節)と言われた、モーセ(シナイ)契約のことです。そうして神の律法である、十戒が与えられたのです。 


 しかし、律法という掟を与えられただけではなく、申命記30章1〜20節では、モアブ契約、それは、悔い改めの赦し、つまりあなたが我に返り、あなたの神、主に立ち返り、心を尽くし、いのちを尽くし、御声に聞き従うなら、主があなたを憐れみ、あなたが生きるようにされる。という悔い改めの赦しという契約、 イスラエルの民族は律法が与えられましたが、同時に悔い改めによる赦しも与えられた、それは私たちにとっても、主イエスが十戒の代わりにくださった愛の律法と同時に、悔い改めによる赦しという形で、旧約聖書を成就された、新しい契約を私たちに示されたという、契約の中に私たちがいることが、なかなか理解しづらいのです。


 8節抜粋「あなたは、彼らには赦しの神」とあるのは、悔い改めれば赦されるという契約に基づいているのです。しかし、同時に「悪しきわざには報復される方」ともあります。問題は何を持って悪しきわざとされるのかという肝心な点ですが、悪しきわざに対して、これが良きわざということを、はっきりと私たちが理解できるようにと父なる神が送ってくださったのが、御子イエスであります。この御子イエスが私たちの行動、生活の元になっているかぎり、私たちは良きわざを行いますが、肉欲やこの世の闇に引っ張られて生きようとしますと、悪しきわざとなってゆきます。しかし、悔い改めれば赦される道も主イエスは示されて下さいました。 ですからそのような主イエスは大いなる主であります。


祈り

主イエスのさとしと戒めを、思い起こして、愛を持って守ることができますように、主イエスの聖霊の力によって、大いなる主のおきてを守ることができますように、御名をほめたたえます。 アーメン

文:森 宗孝


 

『新しい歌』


 この詩篇は、主イエスの再臨の時を描いているのではないだろうか。ここでは主は勝利して、地の果て待て、国々に主の救いを見せたとあります。そうして、人間だけではなく、被造物である海とそこに満ちているもの、川も山もこぞって喜び歌えとありますので、まだ今まで完成していない再臨の時の喜びだと思うのです。


 創世記3章17節に、創造主たる神が、被造物である大地を呪ったことが書かれています。「また、人に言われた。『あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。」


 人間が神に反逆したことで、人も呪われて罪による死が定められましたように、被造物である大地も同時に呪われてしまったのです。しかし、この詩篇では、海も川も、この呪いから解放されて喜び歌っているのです。それは主の右の御手である、イエスが再臨をして神の救いを実現されたからです。ここに本当の喜び、エデンの園の回復があるのではないでしょうか。


 聖書が描いているのは、神の国を建てること、つまり神が人と共に住むための国を建てることが底流に流れているのです。しかし、共に住んでいたエデンの園からアダムとイブの罪によって追い出されてしまいました。神は聖なる方なので、罪と一緒に住むことはできませんので、なんとか悔い改めによって、導こうとされるのですが、聖なる民として、すべての人類の祭司となるように選ばれたイスラエル民族も、罪によって、的外れな生き方をしてしまいます。私たちも同様に、原罪を背負っておりますので、どうしても、生まれながらにして傷ついてしまって、聖なるものとはなりえないのです。そこで完全に聖なる神の御子を送られて、主イエスを信じる者は、主の義をかぶる事によって、父なる神の目には義なる者として、認めてくださることができました。しかし、人の住むこの世は、まだまだ闇の世で、罪に溢れていますので、一緒に住むことはできません、やがて主イエスが示された義をもとに、この世が裁かれる日が来ることが決まっています。そして義なる者と反逆する者とが分けられて、義なる者たちだけが、神と共に住む喜び、神の国を建てる手伝いを、新しい歌を歌いながら神を賛美する。


祈り

神と共に住む喜びに満ち溢れることができますように、多くの人が主イエスを知り、共に神の家族となることができますように、聖霊の助けを借りて、私たちを導き下さい。 アーメン 

文:森 宗孝


 
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