- hccnichigo
- 8月13日
詩篇100篇、この賛美がすぐに心に浮かびます。
「感謝しつつ 主の門に 賛美しつつ その大庭に入れ 主に感謝し
御名をほめたたえよ。」(4)
礼拝とは、広い意味では、私たちは礼拝者として神に造られているということです。だから私たちは常に神を礼拝するのです。神を想い、祈り、賛美し、御言葉を読み、日常生活の中で私たちは常に礼拝者なのです。
また狭い意味では、主の復活した日の朝、日曜日の主日礼拝、これを「礼拝式」と呼びます。
私たちは、常に一人の礼拝者として生きています。同時に特定の場所に、時間に、共に集まり、共に礼拝式を持つということをします。
それは、旧約時代も新約時代も、人々は「共に集まって」礼拝することをしてきたからです。共に集まるということ、これは霊的本能とも言えるものです。
礼拝式に関しては、コロナをきっかけにオンライン礼拝ということが始まりました。これも時代に合った神の恵みだと思います。しかし、共に集まるということの意義が薄まるわけではありません。
これは一人ひとりの霊的感覚なのだと思いますが、共に集まって礼拝を捧げることでしか得られない恵みの体験が確かにあるのだと思います。この恵みはオンライン礼拝と比較するものではありません。神の恵みはその時その時に最善のものが与えられます。オンラインで礼拝している方々は、そこでしか味わえない恵みがあります。同じように、共に集まることによってしか味わえない恵みもあります。
いずれにしても、主日の礼拝式は、私たちの信仰生活の始まりであり終わりです。ここから新しい人生が始まり、そしてやがて新天新地における永遠の礼拝に至るのです。
教会の実際の営みにおいて、礼拝式がすべての営みの中心です。ここから始まり、ここに帰結します。礼拝式が真に神に喜ばれる捧げものであるとき、その教会は真に祝福されるのです。
この詩篇100篇に描かれている礼拝の姿、この姿こそ礼拝そのものです。毎週の礼拝式が、文字通り、この詩篇100篇そのものであったらどんなに素晴らしいことでしょうか。
天の父なる神さま
私たちは、礼拝者として造られました。だからあなたを礼拝している時が一番幸せです。日々の礼拝者としての歩みを祝福してください。主日の礼拝式を祝福してください。まさに詩篇100篇の礼拝を捧げることができるように、私たち一人ひとりを整えてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
文:関真士

