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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「あなたのみこころを行うことを教えてください。

 あなたは私の神であられますから。

 あなたのいつくしみ深い霊が

 平らな地に私を導いてくださいますように。」10節


 主のみこころを知ることはとてもむずかしいです。そもそも主のみこころとはどういうことでしょうか?いろんな解釈があります。でも共通することは、神様が計画していることに忠実に従っていくことです。主語は、神様であって私たちではないということです。


 神様のみこころを行うことを知らない自分にとって、日々の生活に絶えず支障をおこすことが多々にあります。なぜなら、主語がいつしか自分自身になってしまうからです。


 祈るときに、「あなたのみこころのようになりますように。」ということは、互いに祈り合うときによく口ずさみます。しかし、この作者は、主のみこころの行いかたを知ろうとしています。私にとってもその聖句はとても意味深いものであります。


 主のみこころの行いかたを知る鍵となるのは、やはり日々の聖書のみことばにふれることにつながっていくことではないでしょうか。そうすると、いつくしみ深い霊が私たちをいつも満たしてくださるものだと思います。


 天の父よ。あなたのみこころを行う事は、あなたの導きがもっとも正しく、それを心から信じて、信頼していくことができますように導いてください。私たちがいつもあなたのみことばにつながっていく信仰のもちぬしとしてならしめてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン



 

 詩篇142編は、「ダビデが洞窟にいたときに。祈り。」という表題が付けられています。ダビデは、サムエル記第一の22章と24章で2度、サウルの追跡から逃れて、それぞれ、アドラムの洞穴と、エン・ゲディの洞穴に身を潜めた様子を、聖書は語っています。


 ダビデの神への祈りの言葉は、表題を参考にすれば、詩篇138篇から145編まで続いていると見て取れます。これらの詩篇を通して読んでみると、この142編に至るまでのダビデの言葉は、まるで洞窟に逃げていくダビデの姿を表しているようにも聴くことができます。


 2節から3節には次のようにあります。「私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し 私の苦しみを御前に言い表します。私の霊が私のうちで衰え果てたときにも あなたは 私の道をよく知っておられます。


 ダビデがこの時感じていたのは、単なる体の疲れや、心の気分の落ち込みではなく、「私の霊が私のうちで衰え果てたとしても」ということです。このような表現は、138篇から続く言葉の中で、初めて出てきた表現です。すなわち、神に信頼すること、信仰によって歩むことを諦めてしまうことすら脳裏に浮かぶような境遇にあったと言えるかもしれません。


 しかし、そんな霊の衰えを感じずにはいられないような洞窟での時間の中で、ダビデは次のような祈りに導かれます。


あなたこそ私の避け所 生ける者の地での 私の受ける分。」(5節) 


 ダビデが今、実際に逃げ込んでいたのは、文字通りの洞窟でした。自分の周りを囲む洞窟の壁が、迫害する者から自分を隠して、一時的にでも守ってくれると考えたからでしょう。


 しかし、そんな自分を囲む洞窟を眺めながら、ダビデは、「あなたこそ私の避け所」であるという真理に目が開かれたのではないでしょうか。


 この142篇の祈りの後、143篇からは、「私の真の避け所」である主なる神に目が開かれていったダビデは、もう一度、神への賛美と祈りの言葉を語り始めます。それはまるで、ダビデが洞窟から出てきて、再び歩き始めた姿のようにも見えます。


 神は、洞窟の中に逃げ込み、霊の衰えを覚えるようなところを歩む私たちに、真の避け所であるご自身の姿を現してくださるお方です。そして、私たちの目が神に向かって開かれるように、御霊の力によって、心を柔らかくしてくださるお方です。

 

文:中川祐真


 

『信仰による祈り』


 神のみこころを知るためには、聖書のみことばを読むことから始まりますが、その神とつながるためには、私たちは祈りで応答することになります。しかし、例えば、1日3度の食事ができない時、とても我慢できないほど、腹が減ってしまいます。ところが食事よいも肝心な祈りに関しては、自分が、忙しくて、1日の祈りを忘れても、腹が減って我慢できないような気持ちにはならない自分であることを後で気づくと、自分の祈りの熱心さが足りないことを悔い改めてしまいます。


 それに比べて、この詩を歌ったダビデが、苦難にあって、命からがら逃げ回る中で、彼を支えたのは、主への祈りでした。単に願い事をする祈りではなく、神への感謝、神を讃える祈りも忘れてはいませんでした。1節「主よ 私はあなたを呼び求めています」しかし、この祈りのダビデをもってしても、この世の誘惑には勝てなかったことが描かれています。ダビデはウリヤの妻バテ・シェバと姦淫の罪を犯してしまいました。そして、誰にも知られていないように策略したにも関わらず、この事を預言者ナタンによって告発されたのです。(サムエル記II 12章)


 王として君臨していたダビデの立場を考えれば、訴えてきたナタンを捕獲することも簡単にできたことでしょう。しかし、ダビデは祈りの人でした、自分の犯した罪に心を痛めていたのだろうと思います。詩篇に戻って5節a「正しい人が真実の愛をもって私を打ち 頭に注ぐ油で私を戒めてくれますように。 私の頭がそれを拒まないようにしてください。」この言葉が、現実となってナタンによってダビデが打たれた時に、確かにダビデはすぐに、その場で、私は主の前に罪ある者ですと罪を認めた。正しい人が、自分を打ったことで悔い改めたのですが、主は罪をそのまま赦される方ではありません。ダビデの最初の息子は打たれ、ダビデの家族はやがて王権を争って分裂し、ダビデの上にわざわいが下されたのでした。


 私たちの愛する主は、たとえ罪を犯して、主の道から外れても、悔い改めと祈りによって、罪の赦しと救いの道を用意して下さっています。

8節「私の主 神よ まことに 私の目はあなたに向いています。」 

 ダビデは罪の中の泥沼の中から、主を見上げる事を忘れてはいませんでした。


祈り

どうか私たちも、不法を行う者の落とし穴に落ちませんように、私たちを守って下さい。 誘惑に弱い自分達ですが、祈りを忘れずに、落とし穴にもしも落ちてしまったとしても、正しい人が真実の愛をもって、私たちを打ちます時には、素直に悔い改めができますように。 アーメン 

文:森 宗孝


 
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