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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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  • hccnichigo
  • 10月19日

「嘲る者を叱るな。彼があなたを憎まないために。

 知恵のある者を叱れ。彼はあなたを愛する。」8節


 8節の御言葉が心に留まった。叱る時には相手をよくみて行動することのように思われます。例えば自分の幼い子供たちに叱る時は、親として子の成長のために叱咤激励の愛をこめて行動をします。しかし、人を嘲る悪者を叱っても彼らにはきく耳をもっていないから、逆に彼らから攻撃されるのが日常茶飯事のことだと思います。悪く言えば見て見ぬふり、聞いても耳を閉ざすことでしょか。


 確かに現代的に言えばそうなりますが、聖書的な解釈はそういうことではありません。相手に愛と許しをもって接する、ということです。どういうことかといいますと、相手を改めさせるというよりは、自分自身の心のあり方を問う教えだと言われています。


 イエス様の教えはどうでしょうか。

 イエス様が十字架を担いで歩いていく道々で、会衆から嘲られ、血をながされてもなにも言いませんでした。十字架上で人々を見て天の父に「父よ彼らをゆるしてください。」と叫ばれたのです。それは、私たち一人一人への心に問われる教えを示されたことだと思います。イエス様の教えは、嘲る者を叱るよりも逆に愛と許しをもって接していくことだと言われています。愛するわが子が会衆の前で他者から嘲られた時に果たして、親としてその人を叱らずにおられるかどうかということが問われます。


 知恵のある者を叱れ。

 私たち人間が成長していくことに欠かせないことではないでしょうか。知恵のある者を叱っても復讐されることはありません。知恵ある者は叱られることによってそこからますます自分自身に磨きがかかって良い結果を生み出し、叱った人を愛することができるのだと思います。叱られている時は、理解できませんが達成した時に初めて愛することにつながっていくのだと思います。そして、知恵がますます増し加えられていくのです。



 天の父なる神さま。

嘲る者には叱ることなく、愛と許しをもって接していくことができますように。そして、知恵のある者への叱りには愛と知恵が増し加えられていく成長を教えてくださって感謝します。どうぞ、その教えを日々の糧に用いることができますようにお祈りします。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 
  • hccnichigo
  • 10月18日

『知恵を得よ』

 

 知恵が呼んでいるのが聞こえませんか。丘の頂や道ばた、町の門、四つ角、家々の玄関で、知恵は叫んでいます。「皆さん、あなたがたあは何もわかっていない。愚かなことばかりしている。だからわからせてあげよう。これは大切なことだ。わたしはごまかしは大きらいだから、絶対にうそはつかない。(リビングバイブル1-7)


 このみことばを読んで、知恵が人目につくところで、必死に人間に叫び、警告してる様子を思い浮かべた。ここで叫んでいる知恵は、自分の中から出てくる知恵ではなく、神様の与えて下さる知恵なのだと思う。知恵は、多くの人々に見つけてもらいたいから、あちこちに立って、訴えてくれているのだと感じた。


 それは、知恵を得ることが、私たちの祝福に繋がることだからだ。また、神様が私たち一人ひとりに計画してくださっているすばらしい目的のため、そして神様の御心を行うために用いてほしいからではないかと思う。それは神様の喜びとなり、私たちの喜びとなるのだろう。


 でも、とりあえず現状に満足している人たちには、なかなかこの知恵の叫びは届かないのではないだろうか。自分のやり方でうまくいっているのだから、他に耳を傾ける必要があるだろうかと思うのは、自然なことだ。そう考えると人生のつまづきも神様からの祝福であることを思う。私もつまづきや失敗によって、自分の無力さ愚かさを覚え、神様を、そして神様の知恵を求めるようになった。


「わたしは知恵。熟慮と共に住まい 知識と慎重さを備えている」(12)

 正直、私自身は、だいぶ成長の伸びしろが残されていると感じている。こんな私のようなものに知恵は、知恵を得よ!と叫んでくださっている。知恵を求め続けよと言って下さるのだ。

「わたしを愛する人をわたしも愛し わたしを探し求める人はわたしを見いだす。」(17) ここに希望があります。


天のお父様、今日のみことばを感謝いたします。私は知恵に足りないものだとよく感じます。神様、あなたの知恵を受け取らせて下さい。どうぞ私の歩みを導いてください。日々の私の選択と行動が、神様の知恵によるものとなっていきますように。すべてのクリスチャンが神様の知恵に満たされますように。また、一人でも多くの人が主の救いを受け入れ、主と共にその人生を歩む祝福を選んでいくことができますように。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン


(新共同訳聖書使用)



 

「わが子よ。私の言葉を守り、私の命令をあなたのうちに蓄えよ。私の命令を守って生きよ。私の教えを、自分の瞳のように守れ。それを自分の指に結び、心の板に書き記せ。知恵に向かって「あなたは妹だ」と言い、英知に向かって「身内」と呼べ。自分をよその女から守り、ことばの滑らかな、見知らぬ女から守るために。私が家の窓から、格子窓から見下ろして、浅はかな者たちを見ていると、若者たちのうちに、良識のない一人の若い者がいるのに気づいた。彼は、女の家への曲がり角近くの街路を通って、その家に至る道を進んで行った。それは、たそがれの、日の沈むころ、夜と暗闇の始まるころだった。すると、遊女の装いをして、本心を隠したある女が彼を迎えた。この女は騒がしく、頑なで、その足は自分の家にとどまらず、あるときは通りに、あるときは広場にいて、あちこちの角のところで待ち構えていた。この女は彼を捕まえて口づけし、臆面もなく彼に言う。「交わりのいけにえを献げなければならないので、私は今日、自分の誓願を果たしました。それで私はあなたに会いに出て来ました。あなたを捜し求めて、やっと見つけました。私は長椅子に敷き物を、あや織りのエジプトの亜麻布を敷き、寝床を没薬、アロエ、シナモンで香らせました。さあ、私たちは朝まで愛に酔いしれ、愛の喜びを互いに味わいましょう。夫は遠くへ旅に出ていて、家にはいませんから。金の袋を持って行きました。満月のころに帰って来るでしょう」と。彼女は心動かすことばで彼を誘惑し、滑らかな唇で彼をいざなう。彼はただちに、彼女の後について行く。牛が屠り場に引かれていくように、足かせが愚か者を懲らしめているかのように。最後は矢が彼の肝を射抜く。それは、自分のいのちがかかっているのを知らずに、鳥が罠に飛び込むようなものだ。子たちよ。今、私に聞き従い、注意して私の口のことばを聞け。彼女の道に、心がそれて行ってはならない。その通り道に迷い込んではならない。この女は多くの者を切り倒し、殺された者は数えきれない。その女の家はよみへの道。死の部屋に下って行く。」


 この章の目的は、これまでのいくつかの章と同様、若者に向けて肉欲の誘惑に警戒するよう警告しています。そのためには、神のことばに従い、その命令を心の板に書き記せ、守れ、と命じています(1‐5)。神の知恵を心に蓄えていないなら、罪へと誘う所へ自らを招いてしまう様が書かれています(6-23節)。肉欲の罪がもたらす結果は「死の部屋」、それは霊的な死、神のいない滅びの世界だと言います(24‐27)。


 この世の誘惑から身を守るには、それらを避けたり、離れることでもなく、またそれらに陥らないよう頑張ることでもありません。それは、神の知恵である「みことば」を心に板に書き記すことです。そして、「主よ、私をこの誘惑に陥らせないでください」と祈ることなのです。


祈り:愛する天のお父さま。あなたのことばに従い、あなたの命令を守ることの大切さを教えてくださり、感謝いたします。どうか、弱い私を誘惑の罠からお守りくださいますように。主イエス・キリストの御名によって感謝して祈ります。アーメン

文:アイゾン直子


 
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