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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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1節「訓戒を愛する人は知識を愛する。 叱責を憎む者は間抜け者。


 聖書に記された神の言葉は、耳障りの良い、甘い蜜のような言葉だけではなく、「訓戒」、すなわち、戒めの言葉であったり、私たちの生き方を改めるように迫ってくる神の言葉もあることを忘れてはなりません。

 神を愛する者は、自分の耳に心地の良い神の言葉も、自分の口には苦くても、私たちを神の義に導くために語られる神の訓戒や知識、あるいは叱責、そして、悔い改めへ招く神の言葉も、全てを神の言葉として受け止めて、それに応答する者です。


 聖書全体を貫く一つの原則、それは、「人は、自分の生き方や行動に伴う実を、自ら刈り取ることになる」ということがあります。箴言においても、そのことは書全体を通して語られています。


 箴言では、主を恐れて、訓戒を尊ぶ人のことを「正しい人」、逆に、主を恐れることなく、神の言葉を尊ばない人のことを「悪しき人」であると語っています。この12章に限らず、箴言全体、ひいては、聖書全体が、正しい人が刈り取る実と、悪しき人が刈り取る実の違いについて、語っています。


 箴言12章で、具体的に語られている「正しい人と悪しき人が刈り取る実の違い」は以下のようなものです。


3 人は悪で身を堅く立てることはできない。  

  正しい人の根は揺るがない。


7 悪しき者は打ち倒されて、いなくなる。  

  しかし、正しい人の家は立ち続ける。


13 悪人は唇で背いて罠にかかる。 

  正しい人は苦しみから逃れ出る。


 そして、箴言12章は、次のような言葉で締めくくられています。


 28節「義の道にはいのちがあり、 その道筋には死がない。


 これがすなわち、12章の結論です。つまり、イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる「義」の道を生きる者が刈り取る実、それは、「いのち」であり、「その道筋には死がない」、と箴言の言葉は私たちに教えているのです。

 そして逆に、イエス・キリストを信じる信仰に生きない者。その者が刈り取る実は、死である。神との断絶である。そのことも語っています。「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6:23)と、聖書が語っている通りです。

 イエス・キリストを信じる信仰を持ってこの地上を生きることに対して、私たちは時に、虚しくなったり、報いがないように感じられることもあるかもしれません。しかし聖書は、「正しい人」は、必ずそのいのちの実を刈り取ることを約束しています。


文:中川祐真


 

『豚に真珠』


 私たち、日本人のよく知っていることわざの中には聖書からのものがかなりあります。「七転び八起き」とダルマさんのように起き上がるこのことわざは、箴言24章16節「正しい人は七度倒れても、また起き上がり、悪しき者はわざわいでつまずくからだ。」ここから来ているのでしょう。そして「豚に真珠」これはこの11章32節「豚の鼻にある金の輪」のたとえから来ているのかもしれません。聖書は、初代教会の時代にシルクロードを渡って、中国にまで伝わって漢字に影響を与えたのではないでしょうか?そしてKorea経由で日本へと伝わったのかもしれません。そう思うと、みことばの広がる力を感じてしまいます。


 例えば、船という漢字は、舟に八つの口と書きますが、聖書に出てくるノアの箱舟に乗りこんだのは、ノアとノアの妻、そして三人の息子たちセム、ハム、ヤファテとその妻で、合計八人になります。舟にのった八名の口、本当にそこからできた漢字かどうか、調べていませんが、ノアの話の紹介にはなりますね。


 さてこの11章でいくつか、心に響くことばがありました。4節「財産は御怒りの日には役に立たない。義のわざは人を死から救い出す。」そして、25節「おおらかな人は豊かにされ、他人を潤す人は自分も潤される。」 私たちは、どうしても自分の財産を増やし、守ろうと必死になってしまう傾向がありますが、持っている財産は、確かに主の日にはなんの役にも立たないことは確かですね。そして主の御座の前で、さばきの時には、黙示録20章12節「また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。」数々の書物には、きっとその人の生まれた日から死ぬまでの記録が記されているのでしょう。今の世の中を見ても、FacebookであれGoogleであれ、随分と昔に撮った写真を、訪ねてもいないのに見せてくれます。神の記録Storageは無限ですから、一人一人の人生の全てが記録されていても不思議ではありません。その人の行いに応じてさばかれたとあります。義のわざは人を死から救い出す。主イエスを信じた者は、この御座で下されるとされる、二度目の死をすでに免れていますが、義のわざを行った人も、このさばきの座で、救われるのかもしれません。ぜひ、私たちもおおらがになって、他人を潤す者となりたいものです。


祈り

 どうかまだ主イエスの福音を知らない方々、福音が届いていない日本の地区においても、おおらかで、町の人々を助け、義のわざを行っている多くの日本人がおります。確かに、一旦彼らに主イエスの福音が伝えられたならば、聞いて、信じることが求められますが、まったくキリストの名前すら知らない方々もおられることも事実です。どうか彼らが義によって、主の日には救いを受けることができますように祈ります。 アーメン 

文:森 宗孝


 

『正しい人と悪しき者』


 悪しき者とは、神の戒めと啓示を受け入れない者、自分自身の判断で、自己中心に物事を進める者は、愚かな者となってしまう。いかに学識があって、この世において、尊敬されていようとも、人の価値は、その者が神が示された知恵を如何に受け止めたかによって決まる、確かに神の光を心に見出した者の生涯は、その時には見えないが、歴史のなかでも光輝いている。人生の実験によって初めて知る神の啓示、心に素直に受け入れられる者が正しい人と示されている。


 神の啓示を知ることは、そう簡単にできることではないと思う。心から求めみことばを学び、これを咀嚼、食べて自分の栄養として、祈り求めて受け取るものではないだろうか。祈りは神を変えず、人を変えると読んだことがある。


8節「心に知恵のある者は命令を受け入れ、無駄口をたたく愚か者は滅びに落ちる。」 

 厳しいことばです。さて先日の男子会で、善行を重ね、隣人を助け、奉仕の精神をもって生きている者なのに、主イエス・キリストを知らないというだけで、さばきにあうという、みことばは納得できないという話がでました。確かに、救いに関する難しい課題で、はっきりした答えは無いのですが、善行を重ねた人、奉仕をした行為は、この世の人と人との間の出来事です。しかし、聖書は神と人との関係を問いているのです。ですから、この世の中で、どのように善行を重ねても、神との関係が回復されているとは言えないのです。


 父なる神が、神の御子をこの世に送られたのは、世を裁くためではなく、この世を救うためでした。しかし、この御子までも信じない者、信じられない者はすでに、さばきの座に立つ事が聖書に示されています。その時に、その人の生まれてからのすべての事が書物にあって、その行いといのちの書に名前があるかどうかで裁かれると黙示録20章にあります。主イエスを信じた者たちは、このいのちの書に名前がありますので、さばきにあうことはないという教えであります。


 30節「正しい人は永遠に揺るがされることがない。しかし、悪しき者は地に住むことができない。

ですから、私たちクリスチャンは、この世でまだ、主イエスを知らない者、福音を聴いた事のない人々に、御子イエスの教えを伝え続け、神との関係が修復され、この世の終わりに、さばきの座に立つ事がないように、救いのみことばを伝えることが求められています。


祈り

 どうか自分自身が悪しき者となりませんように、主の戒めを求め続け、祈りと悔い改めによって変えられて、さばきの座に立つ者となりませんように。主イエスへの愛によって、救いをうけますように

アーメン 

文:森 宗孝


 
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