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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 箴言は知恵と教訓が詰まった書である。何節かを抜粋する。


15節 悩み苦しむ者の毎日は悪いことのみ。心に楽しみのある人には毎日が祝宴。

16節 わずかな物を持って主を恐れることは、豊かな財宝を持って混乱するよりも良い。

20節 知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな人はその母を蔑む。

22節 よく相談しなければ、計画は倒れる。多くの助言者によって、それは成功する。


 確かに書いてある通りだと思う。15節の「悩み苦しむ者の毎日は悪いことのみ。」に目が留まった。なぜ人間はこうも悩むのだろう。


 最近、運転中にリック・ウォレン氏の講演内容が詰まっているCDを聞いている。

 人が悩み、色んな失敗をする一因として、人生を感情やフィーリングにまかせるからだという。

例えば、

1. 人が人を愛する。

2. その人と恋に落ちる。

3. その人に全ての感情、希望と計画などをを注ぐ。

4. それが、失敗してうまくいかなければ、また、1. 2. 3.を繰り返す。


 自分に合った最高の人を探すのではなく、自分がその人にとって最高の人になればよい、という。感情はその時、正しいと感じても、感情はうそをつくから人は間違いを起こす。


 感情はうそをつく、というこの言葉に衝撃を受けた。自分にも大いに思い当たることが、あるので。


 真実に基づくとおだやかで幸せな人生となる。では真実とは何?それはイエス・キリストであり、聖書の御言葉である。

 では、どうやって、真実に基づけば、良いのだろう。パスター・リックによると、以下のように説明してくれた。


 見る、読む、聴く、書く、御言葉を研究する、仲間と語り合う、心で御言葉を覚える、そしてそれを自分の生活に応用する。人生の難点は「忙しさ」だという。忙しいを理由に沢山の重要なことができなくなる。重要なことは、今抱えている物事の半分もきっとない。


 食べ物が口から入って、胃で消化され栄養となり、腸で吸収されてエネルギーになるのと同じように、毎日御言葉を食べると良い。ただ忙しさが増すと、御言葉の応用がしにくくなる。なので、正しい真実である御言葉を覚えておくと、咄嗟の時でも応用が効き易いという。


天の父なる神様、

今日も御言葉を与えて下さり感謝します。御言葉を毎日食べ霊のエネルギーとさせて下さい。あなたから目を離さないように、そして感情に流されないように、導いて下さい。主イエス・キリストの名により祈ります。アーメン

文: マッカーター政子


 

 この14章でも、13章から引き続き、いろいろ違った状況の中で、またいろいろな観点から見て、「知恵ある者」「正しい者」と「愚かな者」「悪者」とを対比することによって、その違いと訓戒を述べています。そして「知恵」を求めて生きることを私たちに勧めています。


 皆様既にご存知のように、箴言を通して語られている「知恵」とは、新改訳聖書箴言1章の脚注の示す通り「神に喜ばれる生き方をするための、実際的判断力」です。まさに、箴言の主題と言われる「主を恐れることは知識の初めである。」(1:7)が語る通りです。ここで言われている「知識」と「知恵」はほとんど同じ意味だろうと察します。


 ある解説によると、人間の知恵と愚かさを対比させている13章と比べると、この14章では人間の知恵や愚かさが、神との関係に基づくものだということを示そうとしているそうです。例えば、「まっすぐに歩む者は、主を恐れ、曲がって歩む者は、主をさげすむ。」(14:2)主を恐れる者とは知恵のある者で、神のご計画に従ってまっすぐ歩く、しかし、主の教えに従わないで主をさげすむ者は、右や左にそれながら、道に迷いながら曲がりくねった道を歩むのです。


 この章では「道」とか「歩む」という言葉が数回でてきます。これは人生を生きることとその過程を意味することだと思います。詩篇119:19に「私は地では旅人です。」とあるように、人生を生きる私たちは色々な道を歩く旅人です。まっすぐな道もあり、曲がりくねった道もあります。スムーズな平坦で安楽な道もあれば、ガタガタの激しい困難の坂道もあります。しかしどんな道も私たちが神の教えや戒めに目を向けないで、自分の判断だけで生きようとする傾向がよくあります。私たち新約の時代に生きる者にとってこの12節、そしてこの14章全体で対比されている「知恵ある者」「正しい者」と「愚かな者」「悪人」の違いは、キリストを信じる信仰に生きる者と信じないものとの違いと思います。


 そのことを明らかにしてくれるのが12節の「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」だと思います。人間から見ると一見正しいように見えても、その行き着く先は死に至る道であることを警告しています。すなわち、人間的な知恵や行いが神の基準から外れていて、神を恐れない生き方では、神が私たちに臨んでおられるまっすぐな道が見えません。そして曲がりくねった道を歩んでしまう、そしてその終わりには最終的な破滅が待っていることが見えないのです。人間自身の力で選択した生き方や価値観が、表面上は正しく成功しているように見えても、神の基準から見れば間違った道であり、最終的には失敗にまた破滅に至ることを示しています。ここで訓戒として言われている「死」とは、単なる肉体的死だけではなく、神からの断絶、見放されること、神からの恵みと祝福またお導きも頂けないで、そして人生の破たんあるのみのことです。


 面白いなと思ったのは次の13節「笑う時にも心は痛み、、、、、。」は、日本語で言う「顔で笑って心で泣いて」ということですね。12節の「死」とはこのことをもほのめかせているのかなと感じました。


 恵み深い天のお父さま、私たちはあなたに愛され、私たちのために備えてくださっている道に見向きもしないで、自己中心的に自分の道を歩んでしまうことが多々あります。そのような時、どうかあなたの道を示してください、そしてそこに私たちを引き戻してください。いつの間にかあなたの道から逸れてしまう私たちですが、それでも私たちのことを愛し続け、導いてくださることを感謝します。

 God Is Good All The Time. アーメン


 

「期待が長引くと、心は病む。

 望みがかなうことは、いのちの木」12節


「望みがかなえられるのは心地よい。

 愚かな者は悪から離れることを忌み嫌う。」19節


 12節の御言葉と19節の御言葉に心が留まりました。

ある戦争のドラマが思い出されました。敵の陣地にとらわれて過酷な労働を虐げられていた兵隊達は、必ず味方が救出してくれると期待し待ち望み続けました。しかし味方はいくら待っても救出に来てくれませんでした。彼らは、それが期待外れと知った時に、心が病んでいってしまって自ら命を絶って行く者となってしまったのです。味方が救出しに来た時には、すでに遅しで全員が自ら命を絶ってしまっていたという悲しい結末でした。心の病は、期待したのがその通りにならなかった時(つまり期待外れになった時)におこると言われています。


 ある年配の方が言われていました。「物事にあまり期待するな。期待外れになった時に心の病から抜け出せることは用意なことではないからだ。」

 私も何度か期待外れの時が多々ありました。とてもショックで、ふさぎ込んだ時がありました。もう自分の生きるすべはないというほど落ち込んだ時がありました。でも、私たちクリスチャンがそういう状態になった時には、イエス様の十字架に飛び込んでいくことができるという特権が与えられています。祈ってくれる信仰の兄弟姉妹たちがいてくれます。主の御言葉に聞き従って、祈り、期待し待ち望んでいくことができるのです。


「望みがかなうことは、いのちの木」

 期待外れの苦しみ、悩み、に比べて「望みがかなったとき」には心が幸せになります。それは、まるで心が喜びと元気といのちに輝く「いのちの木」だと言われています。主が共に喜んでくださっておられることだと思います。


 天の父なる神さま。

私たちの思いが期待外れになっても決してあきらめずに、常にあなたを呼び求めて、期待し待ち望んでいくことができますようにお祈りします。又、悪から離れることを喜ぶ良い者になれますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 
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