2026年5月22日 エゼキエル書10章
- hccnichigo
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「主の栄光が神殿の敷居から出て行って、ケルビムの上にとどまった。」(10:18)
「すると、ケルビムが翼を広げて、私の前で、地上から上って行った。彼らが出て行くと、輪もそのそばについて行った。彼らが主の宮の東の門の入り口で立ち止まると、イスラエルの神の栄光がその上をおおった。」(10:19)
これまで、エゼキエル書8章では主がイスラエルの民の裁かれる原因が語られ、9章では主の裁きが実行され、この10章ではエルサレム神殿におられた「神の栄光」が、民の罪深さを理由に、神殿を、そしてエルサレムを離れていくという章です。それは神がご自分の民と選ばれたイスラエルの民への裁きと神の都エルサレムからの離別を示す悲惨な章です。
エルサレムの神殿で礼拝する人は、まず「東の門」から入り、西に向かって進み、神殿の敷居、そして至聖所へと向かいます。しかしこの10章では「主の栄光」はそれとは反対方向に進みます。これまで至聖所にとどまっていた「主の栄光(主の臨在)」が、ケルビムと共に、神殿の敷居に移動し、最終的にはエルサレムから離れるため、「東の門」へと移ります。
このようにして、「主の栄光」はエルサレムを去ります。これは、神がイスラエルの民の罪に耐えかねて、彼らを見捨てて神殿から去られたことを意味する決定的な瞬間です。神殿から主の栄光が失われたということは、偶像に満ち、汚れた神殿はもはや主の住まうところではなくなったということです。
主が私たちのそばから立ち去られること、これほど悲しい恐ろしい現実は、他にありません。ダビデは「私をあなたの御前から投げ捨てず、あなたの聖なる御霊を、私から取り去らないでください」(詩篇51:11)と祈ったように、私たちにも、神に見捨てられるという恐怖は実際にあるものです。しかしそのような恐怖はあっても、主の愛はなおも変わらず、神の方から私たちを見捨てることはなく、私たちと共にいてくださることを覚えておきましょう。
次の11章で、「主の栄光」が、東の門から去って、東の山に移り、バビロン捕囚の地に移ることが示されていますが、それはイスラエルの民が捕囚となっても、主はともにおられるという希望があることだと思います。神がヨシュアに与えられた約束を思い出します。「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア記1:9)
私たちも神に見捨てられるという恐怖に襲われる時があると思います。そのような時は、まず我に返った放蕩息子がしたように、私たちもまず主のもとに立ち返り、主と共にあり続けることを許していただけるという信仰を持ち続けたいものです。
祈り
愛する天のお父さま、今日のみことばを感謝します。私たちが辛い、悲しい、何もかも思い通りにいかない場合、ついつい主はわたしから立ち去ってしまわれたのだろうかと悩み悲しむ時が多々ありますが、そうではない、主はどんな時でも私たちと共にいて同情していてくださることを学ばせて頂きました。感謝です。
私たちの主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン

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