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2026年2月27日 へブル人への手紙9章

hccnichigo
2月27日
読了時間: 2分

「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、(13)まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」(14)


 皆さまよくご存じのように、キリスト教信仰とは、単に教会の会員として加わり、その礼拝に出席することだけではなく、私たち一人ひとり個人として、その心と霊をとおして神と親しく交わることです。それを可能にしてくださったのがイエス・キリストです。

 当時のイスラエルの民は、律法にもとづいて、すべてのものは血によってきよめられ、罪の赦しが与えられるものと信じて、祭司は幕屋、聖所に入って礼拝をささげ、その中のすべてのものにやぎと子牛の血を注ぎました。至聖所には大祭司だけが毎年一度だけ入ってすべてのものに血を注ぎました。それ等の血は自分たちの罪、また民の罪の贖いと信じていました。

 しかし、地上の人間の手で作られたこれらの幕屋や聖所は、天にある本物の模型にしかすぎないものなので、動物の血を注いできよめられたと信じていても、「礼拝する者の良心を完全にすることはできません」(9)でした。だから、傷のない、罪のないキリストがご自分のきよい血を、私たちの罪の贖いの犠牲として、ささげてくださいました。それも、それまでの祭司たちのようにではなく、ただ一度だけで罪の贖いと救いが完成しました。それは何という驚異でしょう、勝利でしょう。 そのことの故に、私たち一人ひとりが、神のみ前に出て、神と親しく交わることができるようにしてくださったのです。このような犠牲をしていただくほどの価値のない私たちですけれども、あの惨い十字架の上で血を流して下さったキリストに、最高の感謝をささげたい気持ちです。


 愛する天のお父さま、現代生きる私たちは、旧約の人たちと違って、動物の血ではなく、イエス様の十字架の血できよめられ、神のみ前に出ることを許され、直接祈ることができて、自分の本心をうまくは話せなくても聞いてくださること、神の寛容の中で、愚痴さえも怒りさえもぶちまけてしまう失礼をさえ許して下さる恵みと愛を感謝します。


 
 
 

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