2026年1月30日 イザヤ書51章
- hccnichigo
- 1月30日
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イザヤ書51章の前半では、「神の義」ということが中心的に取り上げられて、語られています。
1節「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。」
5節「わたしの義は近く、わたしの救いは現れた。」
6節「しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義は絶えることがない。」
7節「義を知る者たちよ、わたしに聞け。」
8節「しかし、わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたる。」
主なる神は、神に選ばれ、神の愛を特別に受けているはずのイスラエルを、しかしながら、神の悔い改めの招きをないがしろにし続けている状態のイスラエルを、ご自分の義にあずかる存在として、救いに導こうとされています。
神の義にあずかる、ということは、聖書が語る救いの重要な側面の一つです。それは、自分自身を、良い人間っぽく周囲の人々に見せるための行いや努力では、到達不可能なことです。
しかし、イスラエルは、ローマ人への手紙でパウロが語るように、「彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです」(ローマ10:3)。
神の義にあずかるために、誰もが通らなければならない「狭き門」があります。それは、自分の力で、神に受け入れられる良い人間になろうとするための全ての努力や行いを手放すことです。
イザヤ書51章後半の17節には、次のように書かれています。
「目覚めよ、目覚めよ。エルサレムよ、立ち上がれ。あなたは主の手から憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した。」
本来であれば、罪人である人間自身が、神の憤りの杯を飲まなければなりません。神は人間の罪に対して、憤られるお方です。
しかし、22節に行くと、次のように、展開が変わっていることに気がつきます。
「あなたの主、ご自分の民を弁護するあなたの神、主はこう言われる。『見よ。わたしはあなたの手から、よろめかす杯を取り上げた。あなたはわたしの憤りの大杯をもう二度と飲むことはない。」
皆さんは、ここにイエス・キリストの姿を見ることはできますか。
イエスは十字架にかかられる前、ゲッセマネの園で、次のように言われました。
「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(マタイ26:39)
イエスが十字架にかかられたということは、言い換えれば、罪人が受け取って飲み干すべき神の怒りの杯を、全ての罪人に代わって、代わりに全て父から受け取って飲み干された、ということです。そのイエスの十字架の御業のゆえに、私たちは、このイエスを信じる信仰を通して、神に義と認められ、救いに入れられるのです。
「神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。」(ローマ3:25-26)
文:中川 祐真

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