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2026年1月14日 イザヤ書35章

  • hccnichigo
  • 1月14日
  • 読了時間: 2分

 この章は、すべて書き出したい御言葉で一杯です。ぜひ、じっくり読んでみてください。

 

 今日は、私の証を書きたいと思います。

 今から32年ほど前、牧師になりたての頃です。あるリトリートに参加しました。その中で、聖霊によって心が探られ、一つの罪が示されました。妻も同時に同じ罪が示されました。その罪とは、ある方に対して、言うべきことを言わなかったことによって、その関係を壊してしまったことでした。その方との関係が壊れることを恐れて言えなかったのです。それが後になって悪い結果をもたらしてしまいました。恐れに基づいて妥協した結果は最悪のものでした。結局、自己保身です。その罪が示されたのでした。


 私と妻は、打ちひしがれた心をもって、とにかく主の御前で悔い改めようと部屋に戻りました。その時、部屋に入った瞬間、そこには喜びが満ちていたのです。天使がラッパを吹きながら「よく帰って来た!」と歌って歓迎してくれているのです。

 

 その時、このイザヤ書35章8節からの御言葉が示されたのです。「そこに大路があり、その道は『聖なる道』と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、その道を行く者たちのもの。」


 この「大路」とは、神に立ち返る道、それが悔い改めの道なのだと悟りました。悔い改めとは、神に立ち返ることなのだと、そして神は一人の罪人が悔い改め帰って来ることを喜ばれるお方であることを知ったのです。

 失われた一匹の羊、失われた一枚の銀貨、放蕩息子、これらのたとえ話で、イエスが語られている「天の喜び」とは、このことなのだと知ったのです。


 確かに罪を犯した者であっても、心から悔い改め、主に立ち返る者を、神は喜びを持って受け入れてくださるのです。あの放蕩息子を走り寄って抱きしめた父親の姿こそ、まさに天の父の姿です。

 イエスの十字架のゆえに、私たちの罪は赦され、その血によって罪が清められ者として、いつでも、主のもとに立ち返る者でありたいと思います。 


  天の父なる神さま

 イエスさまの十字架のゆえに、私たちの罪が赦され、清められたことを感謝します。そのゆえに、私たちは罪人のままで、主のもとに行くことができます。なんという恵みでしょうか。どんな自分であっても、主のもとに立ち返る者でありますように、悔い改めることのできる砕かれた心をお与えください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン                                           文:関真士

 
 
 

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