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2024年5月3日 ルカの福音書12章

『恐れる』


 最初に、イエス様は、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。 (4節)その後、続いて5節で、「恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。」と言われます。


 恐れなければならない主を一旦恐れた後には、全て恐れるには及ばないと語られています。イエス様は「人を恐れてはいけない」と言われます。小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えて下さるのです。(32節)


 天国が存在し、地獄もまた存在することを認識する肉の人間にとって、最も恐ろしいことは間違いなく「死」です。でも、私たちは幸いです。なぜなら、イエス様は十字架で死に勝利されたので、心で信じ、口で告白するなら天国に行くことが約束されています。でも、忘れてはいけないのは、永遠の御国への道が開かれただけでは終わりではなく、継続した悔い改めと主により頼む生き方をしていく必要があります。その先にあるのが主の再臨です。


 私たちは正しい恐れを持つ必要があります。それは、創造主であられる主に対する恐れです。 神様は小さなすずめの一羽も覚えておられるお方です。そして、私たちはそのすずめよりも優れたものであると言ってくださっています。恐れることはありません、あなたがたは、多くの雀より価値があるのです。(6、7節抜粋)この「恐れることはありません」とは、「恐怖におののくこと、驚きに捕らえられること」という意味です。人を見て、また、まわりの状況を見て恐れるのではなく、本来恐れるべき方を恐れ、そのお方の恵みにより頼んで行く必要があります。

 私は人を恐れていないだろうか。神に対する正しい恐れを持っているだろうか。

神様の「贖い、救い」という考えられない恵みの奇跡を受け取ったのにも関わらず、神の御言葉に従わない自分がいて、律法学者やパリサイ人になっていないだろうか。


 そして、イエス様は12章の後半で、「腰に帯を締め、明かりをともしていなさい。」(35節)、「目を覚ましていなさい」(37節)、「用心していなさい」(40節)と、再臨に関して、「備えなさい」と語られています。 


 主がいつ戻って来られるかは誰にもわかりません。

「主人が真夜中に帰って来ても、夜明けに帰って来ても、そのようにしているのを見てもらえるなら、そのしもべたちは幸いです。」(38節)主人が戻って来るのは光の無い時、人々が眠り、まどろみ、油断する時です。そうなので、気を引き締めて、目を覚まし、再び戻って来られる主に目を向けていきましょう。


 主の祈り

 いつも私達を愛してくださるご在天の神様、あなたの測り知れない恵みに感謝します。あなたはすべてのものを創造され、人を特別に造られ、私達を特別に愛してくださっていることを感謝します。その道を主と共に歩まないなら、救いは中途半端です。 聖霊様、弱い私を助けてください。いつか私達を迎えに来られる最愛のイエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。 アーメン。



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