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2024年2月14日 マタイの福音書26章

 いよいよ主が十字架にかかる時が来た。イエスは、十字架にかけられてしまったのではない、自ら進んで十字架にかかったのだ。

 

 今日は、22節のことばを心に留めたい。

「主よ、まさか私ではないでしょう。」

 このことばは、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります。」(23)というイエスのことばに対する弟子たちの反応だ。

 この一人とは、イスカリオテのユダのことを指している(25節)。ユダは、銀貨30枚でイエスを売った。この値段は奴隷一人の値段であって、とても安い。この事からユダは、お金に目がくらだとは思えない。彼は、一石三鳥を狙ったのではないだろうか。

 なかなか打倒ローマ帝国に立ち上がらないイエスを促すために、ちょっとした小遣いのために、そして打倒ローマの暁には財務大臣になるために、これはいいアイディアだ! と思っていたのではないだろうか。

 ところが、武装蜂起するはずのイエスが、なんと無抵抗で捕えられ十字架で処刑されることになったのだ。こんなはずではなかった…、ユダは後悔してお金を返しに行ったのだ。彼の後悔と罪悪感は、彼を自死まで追い詰めた。


「まさか、私ではないでしょう。」まさか、私はイエスは裏切るような者ではない、と思いたい。しかしユダを通して、人間の弱さを見る。自分の計画を神の計画よりも優先させるとき、自分の願望を神の御心よりも優先させるとき、私たちはユダと同じ過ちを犯してしまう。

 まさか…私が…そんなこと…。しかし、そのまさかを犯してしまうのが人間の弱さである。

 まさか、あり得ないと考えるより、自分の弱さを見つめ、その弱さを否定しないで受け留め、だからこそ聖霊の助けを求め、十字架のもとに近づくのだ。

 その時、まさかが、さらにまさかとなり、まさかこんな罪人が赦され、神の栄光のために働ける者とさせていただけるとは、まさかが恵みとなっていくのだ。

  

 天の父なる神さま

 私たちは弱いものです。そして罪深い者です。まさかと思うような過ちを犯してしまう者です。しかし、そのような私たちのために、主は十字架で命を捨ててくださり、私たちの罪を赦し、神の栄光のために用いてくださることを感謝いたします。

 まさか!と驚くほどの恵みを感謝します。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン                                           文:関真士


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