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2024年1月16日 申命記31章

『主の栄光 雲の柱』


 モーセは主のみおしえを全イスラエルに伝える、強くあれ、雄々しくあれと、そして7年ごとの仮庵の祭りに、必ず民の前でこのみおしえを読んで聞かせるようにと命じた。仮庵の祭りは秋の祭り、エジプトの奴隷生活から救い出されたものの、荒野でのテント生活、本当の家ではなく、仮の庵での生活を強いられていた、この事を思い起こすために、今でもイスラエルでは家のテラスなどに星空が見えるようなバラックというのか、テント風の中で星空を見ながら、エジプトからの脱出、モーセの話をするそうだ。


 聖書は、まさに預言書。 この31章では主が天幕で雲の柱のうちに現れ、イスラエルの民についての預言をされている。この民はわたしを捨てて、わたしがこの民と結んだわたしの契約を破る。17節の終わりに、その日この民は『これらのわざわいが私たちに降りかかるのは、私たちのうちに私たちの神がおられないからではないか」と言う。とすでに主は見通しされておられる事に驚く。これは直接的にはイスラエルの民へ語られているが、やがて主イエスによって聖なる民として接木されてゆく、私たちへ対しての警告でもあるわけです。私達も、人生の中で次々と起こる災難、患難を経験する時に、「私たちのうちに、神がおられないのではないか」と不安と失望にさい悩まされる経験はないだろうか?


 イザヤ59章1節「見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」神がおられないように思ってしまう原因は、私達の内部の罪のせいだと聖書は語っています。私達の祖先、アダムとイブが神の掟に背いて、善悪の木の実を食べてしまった時に、神の示す善悪から離れてしまい、自分たちの心の中で判断する善悪となってしまいました。なぜ、それが悪いのか? 人それぞれが、自分の判断で何が善くて、何が自分にとって悪いのかを決めてしまうのですが、私の考える善悪が、他の人の善悪と全く異なることになってしまったのです。神の善悪は、間違いがありません、全ての世界に共通しますが、私の善悪は、自分だけの基準なのです。ここで聖書の示す罪とは、神に背くこと、的外れな事が罪で、その結果、自分が犯す過ちが咎となります。この罪と咎のために、神が見えなくなっていると聖書は語ります。

 

 モーセはイスラエルの民の前で語ります、29節「私の死後、あなたがたはきっと脱落して、私があなたに命じた道から外れること、また、後の日に、わざわいがあなたがたに降りかかることを私はよく知っているからだ。それは、あなたがたが主の目に悪であることを行い、あなたがたの手のわざによって主の怒りを引き起こすからである。」実に自分にとっても耳の痛い預言のことばです。


祈り

 主よ、主の目に悪である私どもですが、それでもなお主が私たちのために、ご自分の御子を遣わし、私たちの汚れを拭き取って下さった事に感謝いたします。主の栄光が変わらずに降り注がれていることを疑うことになりませんように、信仰の心を持って主のみおしえを信頼して導かれ続けますように。 アーメン 

文:森 宗孝


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