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2023年12月27日 申命記11章

「見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福とのろいを置く。」(26)


 なんという厳粛な事であろうか。神は、私たちが「選ぶこと」を求めてくださる。私たちは、決してロボットのような無人格な存在ではない。考えて選ぶことの出来る自由意志が与えられている。 

 この自由意志が、私たちが神のかたちに造られた人間として生きる喜びであり、実感でもある。この自由意志が奪われ、強制されることを想像してみると、この自由意志がいかに恵みであるかが分かるだろう。

 しかし、この自由意志があるからこそ、アダムとエバが食べてはならない木の実を食べてしまうこともできたし、厄介なことに私たちはのろいの道を選んでしまうこともできてしまう。だからと言って、「私が間違った道を選ぶことのないように、私の自由意志をなくしてロボットにしてください」とは願うわけにはいかない。


 だからこそ主は、私たちが正しい道を選択できるように、次のように告げる。

「あなたがたは、わたしのことばを心とたましいに刻み、それをしるしとして手に結び付け、記章として額の上に置きなさい。」(18)

「心とたましいに刻み」。神の掟と命令を決して消えることのないように刻み込むのだ。モーセは、ここで荒野の40年間を振り返ることで、神に従う道と逆らう道と、その結果はどうなったかをもう一度思い起こさせているのだ。

  

 私たちの人生も、重要な事から、些細な事まで、常に選択をして生きている。このブログを読むかどうかも、一つの選択の結果だ。

 私たちは、最も重要な選択である、祝福とのろいを選ぶにあたって、しっかりと祝福を選んでいきたい。常に、どんな事であっても、神に従う道、神に喜ばれる道を選ぶ者でありたい。

 そのためには、先人たちの証を聴き、自らの過去を振り返り、やはり神に従う道が最善であると納得し、確信をもって祝福の道を選んでいきたい。



 天の父なる神さま

 今日も、私たちの目の前には、祝福とのろいが置かれています。私たちが、常に祝福の道を選ぶことができますように。

 神の掟と命令に従うことを喜びとし、確信と平安をもって祝福を選ぶことができますように。

 そして、この道の確かさを、子々孫々に証していくことができますように、私たちを導いてください。 

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン        

                                文:関真士


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