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2022年2月13日 ディボーション

マルコの福音書 15章


 マルコの福音書15章は、聖書通読をした時にいつも素通りしたくなる箇所だった。聖書の中で一番辛いところである。できたらディボーションブログの順番が自分にあたってほしくなかった。あまりにも、イエス様の十字架の悲しみへの道がリアルに書き記されていて心が重くなるのである。でも、反面そこは私達クリスチャンが決して通り越してはならない箇所でもあるので、感謝して示されたことを述べていくことにする。


 夜が明けるのを待ち構えていた祭司長たち、律法学者たちは協議を行って、縛られたイエスをピラトに引き渡した。ここで、ピラトが初登場する。ピラトは、イエスにいろいろと質問して、イエスが罪人でないことを知っていたにもかかわらず、群衆の暴動の恐れを知って強盗のバラバを釈放して、イエスをむちで打ってから十字架につけるために引き渡した。

 そして、イエスへの暴行が、肉がちぎれんばかりのむち打ちが、罵りがはじまるのである。あれほど多くの人々に奇跡を起こし、不治の病をいやしてこられたイエスのことを何でもなかったかのように、「イエスを十字架に架けろ。」といとも簡単に叫んでいるのである。

 これが私達本来の肉の人間の姿である。世間様が神様になって、神より世間の目が怖いのである。だから群衆についていかなければならない弱い人間なのである。そのようにならない為にもしっかりとイエスの十字架に目を向けていかなければならないのである。


「最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」マルコ13:13 一部抜粋

「誘惑におちいらないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」マルコ14:38


 兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンに強制的にイエスの十字架を背負わせたのである。ここを読んで、ある牧師が言われたことが思いだされた。聖書学院時代の講義の時だったか忘れたけど、教師が、生徒の皆さんに、自分が聖書に登場する人物のなかで選ぶとしたら誰かという質問に、その牧師は「クレネ人シモンです。」と答えたそうだ。私は、その時はあまり意味がよくつかめずにそんな面倒なことを引き受けるんだとスルー的な思いでいた。

 だが、今は、クレネ人シモンのことを思った時に、彼は強制的に十字架を背負わせられたことは大きな意味があることを悟ったことだったのだ。どういうことかというと、十字架を背負うことによって、イエスの苦痛を和らげ、助けになることだったのだと解釈されている。

 かの有名なマザーテレサは次のことを言っている。「苦しみはそれ自体では空しいもの。しかしキリストの苦難を分かち合う苦しみは素晴らしい神さまへの贈り物です。人の捧げる最も美しい贈り物はキリストと苦しみを分かつことができることです。」クレネ人シモンは、キリストの苦しみ、痛みを共用したかったのでしょう。つまり、誰かが他の誰かの代わりに奉仕することは、神様への贈り物と考えられることではないだろうか。聖書の中に登場する人物で誰を選ぶかという質問に「クレネ人シモン」と答えられた牧師はすごいなと思った。


 愛する天の父なる神様。

 あなたの御名をほめたたえます。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちをもつためである。」ヨハネの福音書3:16 

 神様、私達はあなたの愛する御子イエスの十字架によって救われました。あなたから愛の贈り物をいただきました。今度は、私達がそのいただいた愛の贈り物を、神を知らない多くの人々に届けることができますように用いて下さい。感謝して主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン


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