イザヤ書45章
「捕囚の民の解放」
信仰とは神を仰ぎ見て信じる、大の字に寝て「神様、好きなようにどうにでもしてくれ」とやけっぱちになる事ではなく、自分の全ての力を抜いて大地に身体を任せて、救いの手を出して下さる神を信じる姿勢を保つ時に信仰が生まれ救われる。言葉通り信じて神を仰ぎ見ることです。なんとパワフルなみことば、
22節「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。」
イザヤ書の全体の流れは確かに40章を境に、それまでの中心課題であった主の審判のメッセージからバビロン捕囚となり、希望を失っている次世代のユダヤの民への希望のメッセージに移っている。南王国ユダ王国とエルサレム神殿(紀元前586)を滅ぼしたバビロニアに何度かに渡って強制移住させられたユダヤの民は失意の中にいたので、希望のメッセージが必要であった。家を失い、国を失った民にエルサレムの再建の希望が語られます。預言者イザヤは今のこの征服者バビロニアも、やがてペルシャ帝国をメソポタミアで立ち上げる油注がれたキュロス王によって滅ぼされる(紀元前539)事を預言しただけでなく、このキュロス王によってユダヤ人が捕囚から解放されてエルサレムが再建されることもバビロニア崩壊の150年前に預言しています。
私たちも自分の人生で八方塞がりの時があります。どうしたら良いのでしょうか。囲まれている問題から目線を天に向けて神を仰ぎ見る。主は語ります、わたしを仰ぎ見て救われよ。
さて、イザヤの預言通りにやがて難攻不落であったバビロンは一晩のうちに滅びるのです。実にバビロニアの首都バビロンはユーフラテス川が城壁の中に流れ、城の中には世界7不思議の空中庭園が作られて、その広大な城壁はなんと高さが90メートル、幅が24メートルもあって長さが数十キロに渡りバビロンを囲み確かに難攻不落でした。本丸も大きな門で守られていて中庭にこの空中庭園があったのです。
1節「主は、油注がれた者キュロスについてこう言われる。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前に扉を開いて、その門を閉じさせないようにする。」
キュロスは難攻不落のバビロンに攻め入る前に、城内を流れている川に目をつけてその上流を堰き止めて川の流れを変え、準備を整えて精鋭兵士を連れて水深の低くなった川の中を歩いて、城壁の川の引き込み口から水位が下がったので忍び込んだ。これが紀元前539年10月6日、安心しきって祭りを楽しんでいたバビロニアの王、貴族、兵は本丸に居たのです。ちょうど夕餉の暑さを凌ごうと本丸の門を開け放していた時に攻め入れられたのです。まさにイザヤ書の預言通りにキュロスの前に門は開かれていた。この日たった1日でバビロン城は征服され、その後に諸国を征服したキュロス王はペルシャ帝国を立ち上げていったのです。
しかし、なぜ異邦人であるキュロスを主はわざわざ選んだのでしょう。それは神の杖となってユダヤ人を打ったバビロンが傲慢であったために今度は、その時代には小国でしかなかったペルシャをもって大国バビロンを打ち、そうして神の愛するユダヤの民をエルサレムに戻すためであったのです。こうして捕囚の身であったユダヤ人に対しキュロス王は、エルサレムに戻り城壁を修理する費用も出す勅令を出しました。
実際にこれが実行されるのは後年なのですが、またどうして異邦人であるキュロス王がこれほどまでに捕虜の身であったユダヤ人に厚意を見せたのか、今では想像する以外にありません。大帝国であったバビロニアを地方の豪族のような存在であったキュロスが倒すなど、しかも1日でバビロン城を落とすなど考えられない出来事だったのです、キュロス自身も実現してその幸運に驚いていたのかもしれない。日本で言えば織田信長の桶狭間の戦いのようにキュロスの少数精鋭部隊が巨人を倒した時に、捕囚であったユダヤ人が隠し持っていたイザヤ書を見せて、150年以上も前にあなたの名前が出てきて預言されていましたとイザヤ書を渡したとしたらどうでしょうか。キュロスは、このイザヤ書に自分の名前が書かれて預言されているユダヤの神を畏れ、敬う事になったのではないでしょうか。イスラエルの神であることをあなたが知るためだ、とも書かれている。
5節「わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。」このイザヤの預言、主のみことばを知って、ユダヤの神を今まで知らなかった異邦人であるキュロスが畏れて、単にバビロニアの捕虜でしかなかったこのユダヤの民を厚遇したのは恐らくこのイザヤ書の預言ではなかったかと想像するのです。
もっと感激するのは預言書の対象は単にユダヤの民だけではないのです。この数章にそれが現れてきます。イザヤ44章では主は「わたしに帰れ」と呼びかけ22節抜粋「わたしに帰れ、わたしがあなたを贖ったからだ。」と贖いが記され、45章では「わたしを仰ぎ見て救われよ」、続いて46章では「わたしに聞け」と聖書が語りかける相手は、単にキュロスだけでなく、ユダヤ人だけでなく、地の果てのすべての者に問いかけておられる。すでに贖われた私たちクリスチャンにも語りかけておられるのです。そこで、「はい わたしがおります、主のみことばに従います」と答えられれば、失意の中から新しい力を得て、走っても力衰えず、鷲のように翼を広げて上ることができのです。希望の光、主に感謝します。
祈り
永遠の神、主よ。あなたのほかに、誰もおりません。主が私を形造って下さった方ですからこれからこの世がどうなるのか、私たちがどうすれば良いのかお示しください。すでにお示し下さっておられるのであれば、私たちが解りますように助けをお与えください。そうしてこの肉体は弱ってゆくことでしょうが、霊の力を得て鷲のように力強く羽ばたけますように!
アーメン
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