2022年5月24日 ディボーション

イザヤ書24章


「イザヤの黙示録」


 イザヤ書24章から27章までは終わりの日が記されるイザヤの黙示録と言われている。ヨハネの黙示録と比べてみよう。

 黙示録16章18節 御使いが第七の鉢を注いだ時「そして稲妻がひらめき、雷鳴がとどろき、大きな地震が起こった。これは人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの、大きな地震であった。」イザヤ24章19節「地は割れに割れ、地は破れに破れ、地は揺れに揺れる。」


 ハワイでは地震はあるのだろうか。しかしここの土地柄か、地震よりもここは虹が実に多い所だと感心する。低くたちこむ雲が、毎日のようににょっきり立ちはばかる山々にぶつかり、スコールとなって激しい雨が降ったかと思うと、すぐその後に太陽が雲の切れ目から除いて晴れ模様となる。そんな時に虹がかかってくるのだが、何回か二重の虹も見る機会もあった。虹があって、さらにその上の空にまたひとつ大きな虹が出ているのには驚かされる。創世記9章13節ノアの洪水の後に「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それが、わたしと地との間の契約のしるしである。」これは神が大洪水を再びおこして地を滅ぼす事はなさらないとの契約である。さらに虹に関しては黙示録4章3節「その方は碧玉や赤めのうのように見え、御座の周りには、エメラルドのように見える虹があった。」神の約束である虹は御座の周りにも在る。


 しかし終わりの日には、洪水ではなくて今度はこれまで襲ってきた地震とは比べ物にならない最大限の地震が起こる描写がある。漢文好きな友人は今年の標語を「震天動地」と年賀はがきに書いているが、終わりの日には震天動地が実際に起こるのです。もしも仮にマグネチュード8とか10などの地震が起こったと想定すると、火山からマグマ噴火も起こるだろうし大気は火山灰で暗くなり日光は遮られ天災が世界中に起こる事だろう。果たしてこのようにして終わりの日が訪れるのだろうか。


 さらに地震といえば、アジア大陸とアフリカ大陸がぶつかっている場所が中近東であり、死海の東側には南から北へ断層が走っているそうです。トルコでよく地震が発生するのはこの断層の影響かもしれない。この断層が大地震で動くと、聖書が語っているように地表が激しく動いてエルサレムが世界でも高い所に持ち上げられる可能性もあると学びました。終わりの日の描写は夢物語ではありません。地表の構造が大きく変わってしまうほどの震天動地となるのだ。


 イザヤ24章の終わり21〜23節は主が天で大軍を集めながら、この地では主に逆らう王たちが牢獄に集められ何年かたった後に罰せられる、最後の審判が描かれている。同じように黙示録12章7〜8節「さて、天に戦いが起こって、ミカエルとその御使いたちは竜と戦った。竜とその使いたちも戦ったが、勝つことができず、天にはもはやかれらのいる場所がなくなった。」この竜である悪魔は千年間牢に閉じ込まれてから最後の審判を受ける。(黙示録20章7節) その審判後にシオンの山、エルサレムで万軍の主が王となられ栄光をあらわすとイザヤ24章23節は黙示録と比較して読むと分かり易いかもしれない。


 さて、この世の終わりがきて最後の審判が下されるのだが、その時に果たして主を一度は信じても主から離れてしまった者がどうなるのか、そのような者にでも主の御手の救いはいつまでもあると言う方もいますが、自分は自信を持って言い切れない。もともとは神の御使い・天使であった者でさえ、明けの明星ルシファーは神に反逆して、自分がいと高い者になろうとしてサタンとなり天から追われてしまい、やがてゲヘナに落とされる。神に近い高い所の天使からの脱落は激しかったように、クリスチャンも落ちる時にはそれだけ激しいのかもしれない。不道徳だったから脱落するのでは無く、信仰を失ったがために不道徳になってしまうのだ。神に背を向ける事の恐ろしさを知らなければならない。しかし主の方に向き直って悔い改めをすれば、主イエスは間違いなく赦してくださる事に希望があります。


祈り

 星野富弘の詩に「母の手は菊の花に似ている 固く握りしめ それでいてやわらかな 母の手は 菊の花に似ている」私の母が亡くなった数年後に日本の姉から、母が若い時に長崎で洗礼を受けた事を初めて聞いた時は本当に驚いた。しかし、長崎から横浜に移り住む中で生活に追われ、子育てに追われ、自分が子どもの頃から家庭ではキリスト教のキの字も家で出たことはなかった。勿論一緒に教会に行った経験もない。母が亡くなった時には未だ自分はクリスチャンでは無かったので病棟で信仰を確かめる事も考えつかなかった。終わりの日を思うと母は救われていたと思うが確信がない。でも様々な母の行いを思い出すと信者の姿が見え、必ず天で会えると信じます。他の主を信じていない家族に対しても、天での再会の確信を持てますように、まだこの地にいます姉達が主を信じるように祈り、導く機会が与えられますように アーメン

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