2022年1月31日 ディボーション

マルコの福音書2章


『イエスのもとに集まる群衆』


 イエスは弟子たちと一緒にカペナウムに入ると、意欲的に行動された。会堂に入って人々にみことばを教え、汚れた霊を追い出し、病を癒した。さらにイエスはガリラヤへ渡り、福音を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病を癒された。これらイエスの活動は、瞬く間に人々に知れ渡り、再びカペナウムに戻られたイエスを知ると、人々はまた集まって来た。


 病の癒しを売り物にする宗教は山ほどある。私も昔、友人に誘われて仕方なくある新興宗教の集いに参加したことがあったが、そこも病の癒しを強調していた。癒しを授けるグッズとして水晶が売られ、値段が高い物を購入すればするほど効果は高いということであった。新来者は礼拝の後に、さらなる水晶による奇跡のお話を聞かされるのだが、「この奇跡を信じるかどうかはあなた次第」と言われ、水晶グッズで癒される理由が分からないから、二度とそこに行くことはなかった。


 しかし、イエスが起こされた奇跡は違う。イエスはことばで人を癒されるのである。イエスは、ペテロの家に運び込まれたこの中風の人と、その人を連れて来た人たちに向かって「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。彼らはイエスを信じた信仰によって救われたのである。さらに中風の人に向かって「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」と言われると、その人は立ち上がって、寝床を担ぎ、出て行ったのである。

 ヨハネ1章1節に「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」とある。神であられるイエスのことばに人々は集まった。なぜなら、そのことばには力があったからである。


 ここにみことばを宣べ伝えることの大切さがある。みことばをきちんと伝えるなら、そこに人は集まるということである。みことばには力がある。ことばは神である。イエス・キリストは今も生きて働いておられ、みことばをもって救われるのである。



 祈り:主よ、この天地を創造される前から、私と言う人間を救うと決めて、選んでくださったこと、心より感謝します。霊的に死んでいた私を起こし、癒し、みことばに従って生きることを教えてくださいました。どうか、この力あるみことばを、さらに多くの方々に、お伝えすることができますよう、お用いくださいますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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