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2021幎8月19日 ディボヌション

マタむ犏音曞15章 


 この15章の䞭で、特に7節の「停善者たちよ」ずいうむ゚スのこずばが心に刺さる。

「この民は口先だけでわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れおいる。圌らがわたしを瀌拝しおも、むなしい。人間の呜什を、教えおずしお教えるのだから」8節


 停善者ずいう蚀葉は、もずもずギリシャの仮面挔劇の挔技者を指す蚀葉だったそうだ。仮面を被っお本圓の自分の顔を隠しおいる状態が、たさに停善者ずいう意味になったのだろう。

 む゚スは、ずにかくこの「停善」を嫌った。パリサむ人、埋法孊者に察しおは容赊なく「停善者よ」ず蚀い攟った。

 それにしおも、なぜパリサむ人、埋法孊者は、停善者になっおしたったのだろうか。なろうず思っおなったわけではないだろう。停善者になるこずを目指しお頑匵っお勉匷しおきたわけではないだろう。


 む゚スは、圌らのこずを「その心は遠く離れおいる」ず蚀われた。圌らは、確かに知識においおは神孊の専門家であった。しかし、そこに「心」は䌎っおいなかった。その「心」ずは、神ずの愛の関係だ。

 圌らは、神を愛するどころか、神を怖ろしい、ひどい、酷なお方だず思っおいる。だからこそ䜙蚈に、裁かれないために心を閉ざしお離れおいったのだ。それは、神に愛されるこずが、どのようのこずかを知らなかったからに他ならない。 

 心が近くなれるずしたら、それは神の愛を知り、たた神を愛しおいるからだ。どれだけ心が近くなっおも安心しおいられる。そこに赊しがあるからだ。だから良い自分ずいう仮面を被る必芁もない、ありのたたの自分でいられるからだ。


 私は、もちろん停善者になりたくない。そうならない秘蚣は、自分が停善者であるこずすべおではないが、時に停善者になり埗るずいうこずを認めるこずだ。

 匟子たちは「パリサむ人たちがおこずばを聞いお腹を立おたのをご存知ですか。」12節ず、む゚スに蚀った。

 パリサむ人たちは、停善者ず蚀われお怒ったのだ。なぜ怒ったのか、それが本圓のこずだからだ。人は、本圓のこずを指摘されるず防衛本胜が働いお怒るものだ。

 ここで、本圓のこずを指摘されお怒っおいる自分を認め、「䞻よ、私は停善者ず蚀われお怒っおいたす。なぜなら本圓のこずだからです。」ず蚀えたら、その瞬間、停善者ではなくなる。 


 私は、䞻から本圓の事が指摘されたずき、停善的な自分を芋た時、腹を立おる者か、それずも、その自分を認めお、その姿で䞻に祈れる者であるのか。私は、祈れる者でありたいず心から思った。


祈り

 倩の父なる神さた。私にも、パリサむ人ず同じような、停善者の自分、仮面を被っおしたう自分です。しかも、それを指摘されるず怒っお心を閉ざしおしたうこずもありたす。 

 どうか私が、仮面を捚お去っお、ありのたたの自分を受け入れ、その姿で䞻に祈り求めるこずができたすように、私の心をあなたの愛で満たしおください。䞻む゚ス・キリストの埡名によっお祈りたす。アヌメン


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