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2021年11月20日 ディボーション

詩篇第三巻 80篇


『神よ あなたのスマイルを!』


「神よ 私たちを元に戻し 御顔を照り輝かせてください。そうすれば 私たちは救われます。」80:3

 イスラエル王国の末期、すでに北イスラエルは滅ぼされ、残った南ユダの民はアッシリアに捕らえられる崖っぷちに追い詰められている。残された仲間と心を合わせて祈っている。

「元に戻して」とは、どこに、いつに行かせて欲しいのだろうか? エルサレムの栄華にか? 一時の古き良き時代に戻っただけで、神さまは「御顔を輝かせて」くださるのだろうか? 救われるのだろうか?

 たとえば詩篇の始まり。1篇の1〜3節、暗誦していつもいつも口ずさんでいたくなるあの美しい賛美。

「幸いなことよ 悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座に着かない人。主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。」

 その人、メシアのおられるところに行かして欲しいと祈っていると黙想するのは飛躍だろうか? 神さまの初めの祝福、愛への回帰を切望しているのではないだろうか?

 でなければ「そうすれば〜救われます」と忠誠は誓えないのではないだろうか? 

 余談だがこの「そうすれば」は、ただの接続詞だけれど、自分中心を手放して、神さまに従う関係を表す日本語としてなかなかのスグレ語だな。


 先日11月7日の礼拝の聖書箇所は詩篇67:1〜7だった。ここにも「御顔を照り輝かせてください」と出てくる。

 パスターは、「御顔の輝き」とは神さまの祝福で、神さまの臨在と栄光に招き入れてくださることだと、とりなしてくれた。創世記で神さまは、ご自分の似姿として人を造り祝福された。しかしアダムとエバは「主の御顔」を避ける罪を犯した。爾来、私たちは御顔の輝きを仰ぎ見れる存在ではなかった。

 だけれどもメシア、イエスさまが十字架にかかることで罪の清めと赦しが成就した。イエスさまの痛みと苦しみに歪んだ御顔を忘れてはないらない一方で、臨在と栄光の勝利の象徴である御顔の輝きを、私たちは真正面から見上げて祝福を受け取ろうと話してくださった。真正面から見ることは悔い改めでもある。礼拝って、御顔の輝きを仰ぎ見ることなんだなあとアーメンした。


 だいぶ前に私はパスターに質問したことがある。聖書にはイエスさまが悲しんだ、叱ったなどという感情表現は出てくるけど、笑ったという表現は出てこない。どうしてなのでしょうか? と。

 するとパスターは、「イエスさまはいつも微笑んでおられたから、特に記することがなかった、という説に納得することにしています」と、パスターもニッコリ微笑まれた。

 顔色を見る、目は口ほどに物を言う‥‥顔と顔を合わせることは、胸襟をひらくこと。深くかかわるために必要な行為だ。どんなに激しく叱られても、親の目の優しいまなざしを子どもは見逃さない。逆に優しい言葉をかけられても、目が笑っていなければ心を閉ざしてしまう。


 大々尊敬する小林和夫先生の詩篇講解を開いて歓喜! めっちゃチャーミングな講解箇所があった。詩篇80「み顔の光を求めて」より引用します。

〜〜「み顔の光を照らしてください」という言葉は、『ジョルサレム・バイブル』という、ユダヤ系の方々が訳した聖書では、もっとわかりやすく訳されています。「神よ、あたなのスマイルを私に向けてください」と。「スマイル」とは良い訳だと思います。神さまのスマイルです。「この中でスマイルが嫌いな人は手を挙げてください」と言っても、だれもいないでしょう。けれども、スマイルは作り笑いではいけません。その人の存在の奥底から出てきて、その対象を受け入れます、ということです。ですから、平和、シャロームと相互交換にあると言ったらよいでしょうか。神さまから与えられるスマイルをもって、また私たちもスマイルを持って神さまにお応えしていくのであります。」〜〜 

 イエスさまの御名で祈ります。アーメン


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