詩篇第一巻 11章
「主に私は身を避ける。」 1節
ダビデがサウルに命を狙われていた時に読まれたものであるとされる。
ダビデはサウルの妬みにさらされて窮地に追い込まれていった。見るに見かねた部下達はダビデに逃げるように意見する。だが、ダビデは、1節 「主に私は身を避ける。どうして、あなたがたは私のたましいに言うのか。」と応答する。つまりダビデは、主は正しいお方で、正義を愛される方なのだから逃げるのではなくて主に身を避けることを選んだのだ。
もし私自身が絶体絶命という危機感に陥った時に、はたして主に身を避けることができるだろうかと問われたら、信仰の弱い自分には無理ですぐ逃げると答えるだろう。しかし私に動揺があろうとなかろうと、私が逃げようが、逃げまいが、神様は常にすべてを見通しておられるから、神を畏れて、神に信頼する者であれば、守りの手を差し伸べてくださるお方であると確信できることである。
逃げることも決して悪いことではない。ヨセフとマリアはイエス様が誕生した時にヘロデ王の追跡から逃げて行った。それは、神様からのお告げがあったからだ。大事なのは、自分の思いに頼るのか、あるいは他者の意見にたよるのか、それとも義なる真理の聖書の御言葉に立つかである。ダビデは、7節「主は正しく 正義を愛される。直ぐな人は御顔を仰ぎ見る。」主は義なる方だから、主に従っていけばどんな窮地に追い込まれていても救ってくださるという信仰に立ったのだ。
時には、他者の意見も尊重して聞くことであるが、最後の決断を下すのは自分自身である。良い決断を下すためにはやはり神に祈り神を優先していくことである。私自身、心が揺らされている時に神に委ねることを忘れて自分の思いで事を進めていくことが多々にある。そのような時にはすべてがうまくいかなかったことがあった。神様は、そのような時でも私の悔い改めを待っていてくださるお方である。神様がこのような者の為にも忍耐して待っておられるんだから、私も又、忍耐をもって主に従っていくことをその都度に思い知らせて下さる神にただただ感謝の気持ちで一杯である。心を落ち着かせて、神により頼んでいくことである。
ダビデの信仰を通して、ある牧師が語っておられたことが思いだされた。信仰とは決して諦めないことである。危機感のなかに追い込まれても、諦めずに、逃げずに、静かに神により頼んでいけるかである。そういう信仰をもって日々歩めるようになりたいと思った。
祈り
愛する天の父なる神様。
ダビデの信仰を通して語って下さって感謝します。どんな時にもあなたを信じて、諦めずに
すべてを委ねていけるような信仰を私にも与えてください。ゆるがない信仰をもてますように導いてください。感謝して主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン
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