ヨブ記34章
神様は、いつまでヨブを試されるのでしょうか。
すべての始まりは、ヨブ記1章にある、サタンと主との対話からだった。サタンは、誠実で潔白のヨブに心を留め、思案した。さすがのヨブでも、これだけ打てば、きっと主を呪うに違いない…と。
そして、サタンの手にヨブを任せてしまう神様。でも、それでも神様はサタンにはっきり言い残す。「ただ、彼のいのちには触れるな。」2章6節
そして今、ヨブ記を通して、私たちが知るのは、あのサタンでさえも、結局、神様の主権のもと、その許しの範囲内でしか働きをすることはできない、ということだ。
彼にこのような苦しみがのぞんで、どれだけ経ったのだろう?これまで友人たちとヨブ、多くの声が飛び交い、弁論(章)を重ねてきた。それをずっと聞いていた年少者がいた。その名はエリフ。その名前は「彼は私の神」という意味らしい。
これまでずっと沈黙していたエリフは、ここで口を開く。
「神の御目が人の道の上にあり、その歩みのすべてを神が見ておられるからだ。」21節
こんなに苦しい道でもそうなのですか?神様が見ておられるなら、どうして・・・?ヨブ記の読者である私だって思う。それなら、どうしてあの日、神様はサタンを許したのですか?
人生の苦難にもがきながら、身も心もたましいもボロボロになりながら、でも、それでも、ここに生きているヨブ。試練だなんて言葉で片付けられるようなレベルではない。
しかし、エリフはここで、このようにまで語る。
「どうか、ヨブが最後まで試されるように。」36節
・・・これまでのヨブの歩みを黙想する。神様から「わたしのしもべ」(1章8節)と言わしめるほどに全き人。
ひょっとしたら、ヨブほどの人だったから、最後の最後に至るまで、唯一まことの神を神とし、畏れて生き続けるチャレンジにも似た召しが、神様には「ヨブなら大丈夫だ!」と自信を持って課せられたのかもしれない。「こんなにサタンの攻撃を真っ向に受けても、それでも彼なら耐えられる。この試練を乗り越えられる。」と。
コリント人への手紙第一9章13節
「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」
主よ、このみことばの約束を胸に、最後に至るまであなたを神とし、歩み続けることができますように。あなたの御目を私の道に注ぎ続けてください。アーメン。
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