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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」ー4節ー


  今日からコリント人への手紙第二に入ります。1章でパウロは「神の慰め」について語っています。私が以前に苦しみにあった時に、どうして神は私にこのような苦しみを与えられるのかと悩み落ち込んだことがあります。誰もが経験することだと思います。だがパウロは、ここではっきりとその理由を述べています。


 私たちが受ける苦しみには神の目的があり、それは、私たちが神の愛と慰めを知るだめだと述べています。しかし、パウロはさらに語っています。苦しみはただ神の慰めを知ることが目的ではなく、神の慰めによって、他の苦しみの中にいる人々を慰めるためであると言っています。


 私たちは自分たちが苦しみにあった経験がなければ他者を慰めることはできません。ある牧師が語られたことに心が動かされました。

 「人は、いや神でさえも、苦しみにあうことなしに、他の人を慰めることはできません。慰めというものはそういうものです。自分が似たような経験をして、初めてその人の苦しみを共有することができます。それゆえ、苦しみはとても尊いものなのです。」


 自分が苦しんでいる時に、果たして、苦しみがとても尊いものであるということを受け入れることができるだろうかと思わされるところであります。そのようになるには、聖霊により、御言葉をしっかりと心にたくわえていただけるように祈っていくことではないでしょうか。


 教会で多くの人たちがそれぞれの問題、苦しみを持っておられます。パウロは、そのお一人一人の苦しみと慰めは教会全体のものとして、キリストにある希望につながると言っています。神がキリストを通して与えてくださるこの慰めによって、私たちも、苦難の中にある人を慰めることができると語っています。


 「慰めはただ神から受けることができる」ということは幸いです。自分が、神から受けた慰めを今、苦難の中におられる方々を慰めることができますようにどうぞ用いてください。そして、自分自身が苦しみにあった時に「苦しみにあったことは幸いだった」という御言葉を受け入れることができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

 16章は、この手紙の終わりのことばです。パウロは、大勢の名前を挙げています。テモテやアポロ、アキラとプリスカのように他の箇所にも名前が挙げる人もいれば、「ステファナの一家」「ポルトナトとアカイコ」のように、この箇所だけの人もいます。

 この人たちが、どのような人たちなのか、その素性は分かりません。しかしパウロは、実に多くの人々と関わりを持ち支えられていたのだという事が分かります。

 パウロのように歴史に名前が残るような人もいれば、そうではない人も大勢います。それぞれの神さまの用い方が違うのでしょう。


 無名の神さまの働き人たち。キリスト教会の歴史は、このような無名な人々によって造られ、守られてきたのです。100年後、私の名前は、ほぼ残っていないでしょう。しかし、一人ひとりの存在の確かさは、神の歴史の中に刻まれています。そして何よりも神ご自身が私たちの名前を覚えていてくださいます。


 21節には「私パウロが、自分の手であいさつを記します。」(21)と記されています。実際の手紙は、パウロの弟子が口述筆記したのだと思われます。しかし最後の挨拶だけ自分の手がで書いたというのです。なんだかの事情(眼が悪かったという説もあり)、筆記することが困難だったのでしょう。

 だからこそ、この最後の3節、主の再臨を待ち望むこと、主イエスの恵みと愛の挨拶は、彼の特別な思いが込められた言葉です。実際の文字は、震えるような文字だったのかもしれません。パウロの魂のことば、絶筆です。


 天の父なる神さま、、

 有名、無名に関わらず、それぞれが神から与えられた働きを全うすることができますように。福音宣教の働きの一端に参加できますように。

 また、パウロの魂のことば、しっかりと受け止めます。なお主を待ち望み、主の恵みと愛に生きていきます。

  主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン                                         文:関真士


 

『信仰の土台である福音』


 私たちクリスチャンが信じるものは何だろうか。聖書の中心となる、よきおとずれの福音とは何か。

3〜4節「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また、聖書にもかいてあるとおりに、三日目によみがえられたこと」これが私たちの信仰の中心である福音の3要素、(1)私たちの罪の贖いのために十字架で死なれたこと(2)墓に葬られたこと(3)三日目によみがえられたこと この三つが福音の土台としてパウロがコリントにも、どこの教会にも伝えた福音ですと明らかにされておられます。


 ところが、コリントの教会は、ご存知のように派閥で分裂したりした問題の多い教会ですから、教会のなかには、この福音の3要素のひとつである、キリストが三日目によみがえられた、復活されたということを信じない者たちがいたようであります。彼らに対してキリストがもしもよみがえられなかったなら、信仰も空しいものとなる。なぜならキリストの復活は、人類の初穂として、将来に私たちの身におこる永遠の身体としての復活につながっているからだと力説しているのです。アダムによってすべての人が原罪の罪によって死ぬことが避けられないように、キリストにあって、今度はその罪が赦され、死者の中からよみがえるのです。最初の人アダムは生きるものとなった。しかし、最後のアダム(キリス)はいのちを与える御霊となりました。とパウロは証しして、これがクリスチャンの希望なのです。


 私たちの魂が救われることはキリストの贖いの死、十字架の贖いで明らかにされましたが、私たちはこの魂の救いだけで終わることがなく、身体の救い、永遠の死ぬことのない栄光の身体の約束がされているのです。イエス・キリストがよみがえられた事は、実に信じる者が全員キリストと一緒に復活することだとパウロは神から啓示されているのです。それはいつのことなんでしょうか。


52節「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。


44節「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」


 これがGood News 福音そのものですから、この15章はコリントの手紙の、それこそ頂上、ピークにあたる章なのかもしれません。私たちが、この希望を心から信じるならば、やがて出会う主イエスに喜ばれる事をこの世で成し遂げよう、自分達の労苦が主にあって無駄ではないことを知っている、硬い岩であるイエスを土台とする信仰に立っていると思いませんか。


祈り

 どうか、福音である希望が、私たちのこの世での労苦に打ち勝つ力がありますことに感謝致します。

まだまだ信仰の浅い自分に、この希望の火が燃え続けますように。 アーメン 

文:森 宗孝


 
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