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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」18節


 コリント人への手紙第二 4章では心に留まる聖句がいっぱい述べられています。その中で、私は18節に目が留まりました。


 パウロは、「見えるもの」と「見えないもの」について述べています。 

「目に見えるもの」は必ず朽ちていきます。「見えるもの」とは、私たちの周りを取り巻く情報です。とても魅力的なものばかりで誘惑に陥りやすいです。


 しかし、「見えるもの」はいつかは廃れていきます。なぜならそれらのものは人間が作ったもので霊的な永遠の御国に属するものではないからです。霊的な永遠の御国に属するものは、朽ちることがないのです。


 それでは、「見えないもの」とは、又は霊的な永遠の御国に属するものとは何かといいますと、それは、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」といったものです。 私たちは、「見えないもの」に目を留めます。


 解釈者によると、それは、終わりの日に何が起きるのかに目を注ぐということです。終末がくることを覚え、御国を目指して生きる。私たちは御国に迎えられるとの約束を信じ、ふさわしい者になることを目指す。神が私たちに求めているのは、「見えないもの」に目を留めて、「見えるもの」に心を支配されない生き方です。


  私たちは、今の時代に「見えるもの」から「見えないもの」へと目をそらすことは大きなチャレンジです。しかし、終末は必ず到来するということを知っている私たちは御国めざして、「見えるもの」に心を支配されずに、「見えないもの」に心を留めていくことだと思います。


 パウロは語っています。「こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することはありません。」―1節―

神は、私たちにも同じことを望んでおられると思います。時には、福音を伝える時にうまくできなかったことに挫折することがあります。しかし、パウロは、神からのあわれみを受けた務めは決して落胆することはないと言っています。何という強い励ましでしょうか。



愛する天の父なる神さま。御名をほめたたえます。今日の御言葉に感謝します。私たちが「見えないもの」に目を留めていくことができますように助けてください。そして、恐れずに福音を伝えることができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

『御霊に生きる』


 ホノルル教会に集う兄弟姉妹の中に、お顔が輝いている人々を多く見る。そこで7節の言葉が目に留まった。まずは6節から見てみよう。


6節「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」


 文字(律法)に仕える者ではなく御霊に仕える者となる資格がイエス・キリストの十字架により与えられた。


7節「石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、8節 御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。


 モーゼがシナイ山で石板に十戒を授かった時、山の下にいた民に神様の言葉を伝えている時、顔があまりにも輝いて民にとって眩しすぎた。このため、モーゼは覆いを被らなければならない程であったという。


 神様の義に生きる人はその栄光を帯びて輝いて見える、の解説を読み「はぁ、なるほど」と納得がいった。輝いている人々に会い言葉を交わし、私は元気をもらう。


9節 「罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。」


天の父なる神様、

イエス様の血潮により、私たち一人一人に聖霊様が内住して下さり感謝です。御霊に仕えるものであれるよう日々導いて下さい。判断の岐路に立たされた時に、義の道へと進められるようお力添え下さい。イエス様の御名により祈ります。

アーメン

        文: マッカーター政子

参照:


 

『パウロの苦難』


 パウロは自分に対する批判を強く意識して、そのような批判に対する反論としてこの第二の手紙を書きました。彼の伝道活動には常に非常な苦難が伴っていました。


 究極的にはパウロは自分の伝道を、十字架に向かって苦難の道を歩まれたキリストの道に重ね合わせています。パウロは、なぜ彼の伝道活動がこんなに困難を極めているのか、その理由とはイエス・キリストの伝道の生涯も困難を極めていたからだ、と言っているのです。パウロの伝道の目的とは、イエス・キリストを人々に示すことです。パウロは、自分は言葉だけではなく、その苦難に満ちた伝道活動そのものによって、イエス・キリストを、イエス・キリストの香りを人々に示しているのだ、と語っています。十字架へと向かうイエス・キリストの道のりは、普通の感覚で見れば死に向かう道のりですが、実際には、それはいのちへと至る道のりで、しかも、自分がいのちに至るだけでなく、他の多くの人をもいのちに至らせる道のりです。

 

 このようなパウロの十字架の歩みに対して、人々の反応は分かれます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に捧げられた芳しいキリストの香りなのです。(15節)パウロはさらにこう言っています。滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りであり、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りですと。(16節)


 パウロは、自分が愛するコリント教会の人から、あらぬ疑いをかけられて困惑していました。パウロは神の使者として、神のために働いているのにどうしてこんなに苦しむのか、なぜ神はパウロを助けないのか、その答えとは、キリストもまた苦難の生涯を送ったからです。パウロの苦難の伝道人生は、キリストのそれをまさに反映し、その繰り返しです。


主の祈り:イエス・キリストの父なる神様、その御名を讃美します。今日はパウロが自分の伝道生涯の苦しみの意味を語り、その苦しみとは、キリストの苦難をなぞり、キリストの姿を人々に示すためであることを学びました。私たちは小さく弱い者ですが、それでもパウロのように、私たちの歩みを通じて周りの人たちにキリストを示す者とさせてください。私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン


 
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