top of page
Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

【お知らせとお願い】
​ メールアドレスを登録して頂ければ、
 新規ブログ更新毎にお知らせメールが届きます。​
 この機会に、是非、ご登録をお願い致します。​

ご登録ありがとうございました

 *登録の手順) アドレス入力 → 「>」を押下

 先の章に続き、この章でも献金について、特にエルサレムの聖徒たちへの支援金のための献金が課題とされています。


 ある注解書が教えることは、新約聖書は現実的な本であって、その大きな特徴の一つは、報酬目当ての動機を少しも恐れていないことです。「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者、豊かに刈り取ります。」(6節)とパウロが言うことは正にその通りです。そして、私たちが惜しみなく施しをするとき、私たち自身がその報酬として、あふれるばかりの富をいただけるかもしれないけれど、それよりもっと価値のある神への感謝と喜びをいただけると言ってます。そして、更に最高の報酬として、「神はそういう私たちを喜んで愛してくださる」と語っています。(7節)


 私たちが惜しみなく施すことは神が私たちに切に望んでおられることであり、また私たちが当然なすべきことなのです。それは、8節にある通り、神はそれができるように、私たちが「常にすべてのことにおいて満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えてくださる」からです。


 私自身教会に通い始めたころ、この献金ということに躊躇しました。。しかしある方が、7節の聖句を講談で引用されました。「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」それを聞いて、心に安らぎを頂き、まるで政府に税金を払うように、教会員としての義務を全うするためにいやいやながら捧げなくてもいいのだと理解できて、喜んで捧げることができるようになったことを思い出します。


 そしてこの原則は、教会における献金だけでなく、この世の困窮の中にいる人たちに対する施しにも適応されるべきです。人に施しを与えるときは、義務感に押されてではなく、また施すときの自分の快感とか、特権意識からくる誇示とか、自分を美化するためなどのいわゆる自己満足からではなく、純粋にキリストの愛と恵みをもってするべきと教えています。私たちも、愛に迫られて与える、そうせずにはおられないから施す者となりたいものです。


 更に、この惜しみなく与えるキリスト者の寛大さは、それを見る他の多くの人々がキリスト者のキリストの福音に対する従順さを示すことであると知って、神をあがめるようになるのです。(13節)福音を広げることになるのです。


 この章の最後では、パウロはコリントの人たちの思いを、イエス様という神からの私たちへの無条件の最高にすばらしい恵みへと向けさせています。パウロはこの素晴らしい恵みに彼らの思いを向けさせて、「あなたたちは神からこれほどまでに豊かな恵みを受けているのだから、人々に対して、寛大になれるのは当然ではないか」と悟らせようとしているように思えます。



愛する天のお父さま、今日の御言葉を感謝します。私たちが、したくないことをしなければならないときは、気持ちを切り換え、率先して、喜んでするようにさせてください。同じ行いでも、自発的にするか、いやいやながらするかでは、その価値や結果は全く違ったものになると思います。どうか主よ、私たちが喜んで与えるものとなりますようにお導きください。そしてそんな私たちを喜んでくださり、私たちをさらに祝福してくださいますように。イエスキリストの聖名によって祈ります。アーメン


 

 コリント人への手紙第二8章は、エルサレム教会への献金について語られています。当時のエルサレム教会は非常に困難な状況にあり、援助を必要としていました。


 エルサレム教会のユダや人たちは、イエスをメシアとは信じない、それどころかイエスをユダヤ当局によって公式に処刑された犯罪者だと思うようなユダヤ人に囲まれて、敵対な状況の中で生活し、経済的にも困窮していました。そのようなユダヤ人クリスチャンを、異邦人のクリスチャンが助けること、それこそがユダヤ人と異邦人の和解の証しだと信じてパウロは異邦人教会において必死になって献金を集めていたと言われています。


 マケドニアの諸教会(テサロニケ教会とピリピ教会のこと)の人たちの熱心な献金のことをかたったパウロは、今度は最も重要な方、イエス様の模範をしめされたのです。


「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」9節


 富んだイエス様があなたがたのために貧しくなられたように、富んだあなたがたコリント教会の人たちも、貧しいエルサレム教会のために与えるのをおしんではならないと、パウロは述べています。さらにパウロは語っています。


「喜んでしょうと思ったとおりに、持っているものでやり遂げてください。」11節


 ある解説者は語っています。

パウロはこのエルサレム教会への献金のために命を懸け、そして実際にそのために命を落とした、それくらい重要な事柄でした。パウロは、この献金をどうしてもエルサレム教会に自分自身の手で届けたかったのです。なぜそこまでするのかというと、それは、「ユダヤ人も異邦人もない」教会で、民族の垣根を乗り越えた、世界中のあらゆる民族が一つとなる教会ということだと言われています。



 愛する天の父なる神さま。あなたの御名を心からほめたたえます。

今日の御言葉を心から感謝します。私たちも、喜んで与えることができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

「神のみこころにそって悲しむ」(11)

 悲しみには、二種類あって、神のみこころに沿った悲しみとこの世の悲しみがあります。

「神のみこころにそった悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じますが、世の悲しみは死をもたらします。」(10)


 この箇所における神のみこころにそった悲しみとは、罪を認めた時の悲しみです。それは悔い改めに導くものになります。対して、この世の悲しみとは、罪を責めるだけで、そこ救いはありません。


 私たちは、聖霊によって罪が示された時には、その罪のゆえに悲しむのです。それはイエスの十字架のもとへと私たちを導く、つまり救いへと導くのです、しかし、この世がもたらす悲しみは、ただ後悔させ、自分を責めるように仕向け、そこに救いはありません。

 

 信仰生活において大切なのは、罪が示された時にどうするか?です。まずその罪が聖霊による示しなのか、この世の示しなのか、本当に悔い改めるべきものは、それとも拒否するものか、どちらかを判別することです。

 そして、もしそれが聖霊からのものであれば、私たちは十字架の元へと進み出て、主を仰ぎ見るのです。そこで罪の赦しをいただくのです。


 天の父なる神さま

 私たちが、罪に対して悲しむのは、聖霊によってなのか、この世によるものなのか、正しく判別し、正しく悔い改めることができますように。サタンの惑わしから守ってください。  

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン           

文:関真士

                    

 
bottom of page