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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 ヨブ記2章は、1章に続いて主とサタンの対決です。主に従順であればあるほどサタンも攻撃してきます。


 3節(一部抜粋)で、主がサタンに言われています。

「彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。彼はなお、自分の誠実さを堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして彼に敵対させ、理由もなく彼を呑みつくそうとしたが。」


 しかし、サタンも引き下がることなく4節(一部抜粋)で、「皮の代わりは、皮をもってします。自分のいのちの代わりには、人は財産すべてを与えるものです。」そのことは、わかるような気がします。私も子供がひどい病気になった時にはありとあらゆることをしてきたことがありました。ある偶像礼拝に藁をもつかむ思いで入会したこともありました。もしもその時に、イエス様が群衆の群れにおられたら、私も長血を患っていた女性と同じく子供と共にイエス様の衣の裾のボンボンに触っていたことだろうなという思いが重なってきました。余談になりました。


 サタンは5節でさらに主に言いました。「しかし、手を伸ばして、彼の骨と肉を打ってみてください。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません。」どうにかしてヨブを主から離そうと必死になっています。そして、主は6節でサタンに言われた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ、彼のいのちには触れるな。」


 ヨブはサタンによって悪性の腫物となってしまいました。そのヨブの苦しい時に彼の妻は、「神を呪って死になさい。」と言ったのである。10人のわが子たちを失い、又、多くのものを失ってしまって、挙句の果てに自分の夫が悪性の腫瘍で苦しんでいるのをみるのが耐えられなかったのでしょう。「一緒に主に祈りましょう。」の一言も言えなかったのではないでしょうか。その時にヨブが妻に言ったことは、「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか。」でした。実に頭がさがるヨブの信仰です。


 三人の友もヨブの所に来てくれて、7日7夜ヨブのそばに座ってくれていたのです。なんと素晴らしいことでしょう。他者が苦しみ悲しんでいる時には言葉はいらないのです。一緒にいてくれることが大きな慰めとなるのです。私たちもそういうふうになれて、そういう友が与えられたらいいですね。



 主を崇めます。今日の御言葉を心から感謝します。信仰がいつも揺らぐ弱い者です。どうぞヨブのように誠実で直ぐな心をもち、神を畏れて悪から遠ざかっていくことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン



 

 ヨブ記のテーマは「神議論」と呼ばれます。神議論とは、「なぜ全能であり、愛であり、義である神が造ったこの世に悪が存在するのかを問う議論」です。

 人生は不条理で満ちています。答えのない出来事で一杯です。そこで私たちは神を信じるからこそ、なぜ神がいるなら、と問うのです。


 ヨブは「この人は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた。」(1)という人物でした。子供たちにも恵まれ、財産も豊かで、申し分のない幸せな日々を送っていました。ところが突然ヨブを苦難が襲います。一瞬ですべてを失ったのです。

 ここから長い章に亘ってヨブと友人たちとのやり取りが始まり、そして最後に神ご自身がヨブに現れます。

 彼らの思考の大前提は、神は正しい人に災いをくだすはずはない。だからヨブが苦難にあっているのは、何か隠れた罪があるに違いないということです。

 友人たちはヨブに対して、何か罪があるだろう、罪を認めよと迫ります。しかしヨブはどう考えても罪が思い当たらない、いっそむしろ罪があると分かった方が納得できるのです。しかしヨブは思い当たる罪がない、にもかかわらず神から災難を受けている、ということは「神の方が間違っている」という考えに至っていくのです。

 これから続くヨブと友人の長いやり取りは、この事を理解しておくと分かりやすくなります。

 

 しかし、まず1章においてはヨブの信仰は揺るぎません。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(21)と告白します。

 苦難の中でヨブは、それでも神への信頼を失いません。それは、「主よ、なぜですか?」と問うことなく、ただ主の絶対的な主権を認めているからです。


 しかしこの後、3人の友人たちは、神の正しさを神のために弁明しはじめるのです。しかし人間が、神の正しさを証明することには限界があるのです。ですから後にこの3人の友人は「わたしについて確かなことを語らなかった。」(42:7)と言われてしまうのです。またヨブは、「自分を義とするために、わたしを不義に定めるのか。」(40:8)と言われてしまうのです。

 

 ヨブ記は、なぜ苦難が起こるのか? という問いかけに答えません。神議論には答えはないのです。しかし実に多くの人が、苦難のただ中にあってこのヨブ記に慰めと希望を見出すのです。それはなぜか? なぜヨブ記が希望の書となり得るのか? そのことを考えながら、ヨブ記の世界に飛び込んでいきましょう。



天の父なる神さま

 このヨブ記を通して、私たちが、もっとあなたのことを知ることができますように。そして自分を知ることができますように。御言葉の深みへと私たちを導き入れてください。アーメン

  文:関真士

 

『愛の鞭』


 パウロはこの最後の章で、5〜6節「あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですか。あなたがたが不適格な者なら別ですが。しかし、(別訳:私たちが本当の信仰者であると)私たちは不適格でないことが、あなたがたに分かるように、私は望んでいます。


 この問いかけは、厳しい愛のムチの言葉ですね。あなたは本当に信じているのか。自分のうちにイエスがおられることを自覚していないのですか。と私たちにも語られているように感じます。本物の信仰を持っているのですかと聞かれたら、どう答えますか。このコリント教会への最後の章で、パウロはこれまで語ったことを踏まえて、あなたがたは、キリストと共に生きているのですよ、ですから自分が弱くとも、キリストによって強く、完全な者になるように祈っているというのです。この完全な者とは、今までは、魂に穴が空いていたようにして生きていた。自分自身に頼って、自分の才覚で生きて来たけれども、創造主である神のことを忘れていた、神との繋がりが無かった、心に穴が空いていたけれども、それが主イエスによって塞がれて、完全な者となるのですという意味に自分は捉えました。 完璧な人間になったということではなく、まだまだ人間として成長が足りないけれど、心の穴は塞がって、神と和解した状態になったとパウロは言っているのではないでしょうか。そうして、祝福の言葉をもって手紙を終えているのです。


 11節「最後に兄弟たち、喜びなさい。完全になりなさい。慰めを受けなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。」


 私たちの心の穴が埋まりますと、喜びに包まれ、主の慰めを心で受け止めて、自分の周りにどんなことが起こっても、結果に惑わされずに、心の中は平安でいることができるのですね。 それは主イエスの聖霊が共にいてくださるので、平和であり安全なのです。


 これほど真理をあなたがたに語っていても、まだ解らないのですか。2節抜粋「こうして離れている今も、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦しません。」コリント教会を愛しているからこそ、おしりを叩いているパウロの様子が見えるようです。そしてこれは私たちへの言葉でもあるのです。


祈り

 どうか私たちも、イエス・キリストが私たちと共におられることを自覚して、主にあって一つになることを信じ、全き者と導かれますように、主イエスの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、すべてともにありますように。 アーメン 

文:森 宗孝


 
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