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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「神が裁きを曲げられるだろうか。全能者が義を曲げられるだろうか。」(3)


 ビルダデの言葉は、その一つ一つを見れば正しいことを語っている。しかし前提は、ヨブは何か罪を犯しているに違いない、だから義なる神の裁きが下っているということである。

 3節のみことばは、正しいその通りである。ここでビルダデは、神の義を主張している。しかし、神の義は人間が証明するものではない。神はそれを人間に求めてはいないのだ。もとより、人間が神の義を証明することは不可能なのだ。


 この前提に立つ限り、苦難の意味を見い出すことはできない。悪いことをすれば悪いことが起こる。この因果応報は、確かに一理ある。聖書も撒いた種は刈り取るという種蒔きの法則を語る。

 しかし、そこには神はおられない。ここに神の摂理が登場するとき、この因果応報は打ち破られる。

 このヨブ記において、神は苦難の原因は答えていない。ただ神が神であることを示している。圧倒的なまでに神の絶対性を示している。そして、それがヨブへの答えとなり、ヨブはそれで十分に納得したのだ。


 私たちが苦難の意味を問うとき、その苦難の中で神に出会うなら、それが答えとなる。そして私たちは、それでなぜか納得してしまうのだ。そして神を賛美するようになるのだ。

 神の愛、神の義、神の聖、神の全知全能…、神ご自身の中に、すべての答えがあるからだ。


「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。 あなたはわたしをあがめよう」詩篇50:15


 私たちは、苦難の日に神を求める者だろうか。それとも苦難の日に神から離れる者だろうか。苦難の日にこそ、神を求め、神に近づく自分でありたい。その時、神ご自身が私たちを助けてくださるのだ。そして神を賛美する自分になるのだ。


 天の父なる神さま

 苦難の日にこそ、主を求める私たちでありますように。あなたの助けを得ることができますように。そして苦難のただ中であなたを賛美する者となりますように。聖霊が私たちを助け導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:関真士


 

『痛みで眠れぬ夜』


 ヨブは痛みのために、夜は長く、夜明けまで寝返りを打ち続けていると苦しみを訴えて、身体の痛みと同時に、たましいも苦悩の中で嘆いていると自分を表現しています。そうして主に、私のことを心に留めてくださいと懇願するのです。しかし主からの答えはなく、もんもんとした夜は続くのです。


 16節「もういやです。いつまでも生きたくありません。かまわないでください。わたしの日々は空しいのです。」このような痛みを味わったことのある人もおられるでしょう。この苦痛を逃れるために、生きたくありませんと思う人は、大変多い事を私たち多くの者は、人生経験から知っています。


 日本の電車での経験ですが、確か中央線で三鷹駅あたりだったと思うのですが、夕方遅くに帰宅途中に、その駅に到着する時に飛び込み自殺がありました。しばらく停車した後に、アナウンスがあって、一番前のドアを避けて、うしろから皆さん、下車してください。その時に飛び込み自殺とアナウンスされたかどうか覚えていませんが、乗客の皆が状況を理解したのです。しかし、驚いたのは乗客の反応でした。前に座っている学生たちは、何事もなかったようにスマホをいじりながら、にっこりする者もいれば、またかよ、早く帰りたいのにまったく、と呟く人もいました。恐らく、自分達にとっては初めての経験ですが、一部の乗客にとっては経験済みだったのかもしれません。そして、あっという間に駅員さんたちが自殺者を担架で運び出すのですが、何人かがブルーのターフで担架を囲み、人が見れないようにして運び出すのを驚きながら見ておりました。 あまりにも手際良い手配に、逆にこれがしょっちゅう起きている事件なのだと思いつつ、見も知らぬ自殺者の冥福を祈ったことがありました。 私たちは皆、希望を失うこと、魂の苦痛、身体の痛みから逃げるために、生きる意志を失ってしまうのでしょうか。


 それでも、ヨブが訴えかけている相手は、主なる神に対して、自分の苦悩をなりふり構わずに、21節「どうして、あなたは私の背きを赦さず、私の咎を取り去ってくださらないのですか。」と怒りを直接、主なる神にぶつけているのです。自分がこのように、身体の痛みや魂の苦痛を受けた時に、主に対してではなく、自分の方に怒りを向けてしまわないだどうかと考えながら、自分自身にその怒りをぶつける時に、生きる意志を失うことになることを理解しました。しかし、これ以上、下がる事が出来ない所まで落ちて行きますと、地球でも地殻にぶつかりますように、そこに常におられる、すべての創造主たる主にたどりつくことになるのでしょうか。そしてそこに、私たちの、痛み、怒り、どうしようもない苦悩を投げかけてゆく、そこに痛みを聴いてくださる主がおられることを忘れてはなりません。


祈り

今おられ、昔おられ、やがて来られる主が、私たちがどのような状況に置かれ、これ以上の苦しみ、苦悩がないと思っても、そこにも主がおられることを忘れることがありませんように、私たちを導きください。 アーメン 

文: 森 宗孝



 

『なぜ何の助けもないのか』


 宗教改革の中で、苦悩を経験したマルチン・ルターは、ヨブ記を聖書の中でも最も崇高な書と評価している、これは恐らく人間の苦悩と、私たちには見えない神のDivinity(神性)の解決なき解決を理解されたのではないかと思います。それに対して、先月のデボーションで学んだエステル記に対してルターは、血生臭い報復の書として、無かった方が良い書とまで酷評している。自分としては、ヨブ記は何度も同じような話が繰り返されていて、エステル記の方が面白いと思ったのです。人はそれぞれその経験によって、違ったみことばが心に響くのですね。


 さて、私たち日本人の根元には、「因果応報」という苦難を受けるのは、何らかの罪を犯したせいであるという根強い考え方があると思います。イエスの弟子たちも同様な考えを持っていた事が解ります。ヨハネ9章に生まれた時から盲目の人の癒しがありますが、2節「弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」これは日本人の因果応報の考え方と全く同じですね。そして、この因果応報に立つのがヨブの友人たちの立場だと思うのです。 あなたがこれほどの苦難に逢うのは、過去に犯した罪のためである。と思ってしまうのです。


 しかし、ここでヨブの友人たちを簡単に非難することはできません。彼らは、ヨブと共に、七日七夜座って、一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みが非常に大きいのを見たからである。と2章13節にあるように、7日間も一緒にいて、祈っていた友人たちなのです。ヨブの事を心配してやってきた友人たちです。 


 私たちも友人の中に、大変な苦難を通された方々を知っておられると思います。愛する者を失った悲しみや、自分の身体が末期のガンにさらされてしまった方、知人の中に、マウイ島のラハイナで家が焼失して、やっとの思いでロスに移り住んだ家族がおられます。今度はロスの火事で、またもや家が焼失してしまったそうです。ヨブは一瞬のうちに十人の子供達を一挙に失い、財産の家畜も同時に失うだけでなく、自分の身体に悪性の腫物ができて、身体中が痛くてたまらなかったとあります。


 なぜ神は、このような罰をもって私を打つのかわかりません。との叫びが続きます。ヨブ記6章4節「まことに、全能者の矢が私に刺さり、その毒を私の霊が飲み、神の脅威が私に対して準備されている。」神になぜですか。と問うものの答えがないのです。24節「私に教えよ。そうすれば、私は黙ろう。私がどのように迷い出たのか、私に悟らせよ。」と訴え続けるヨブの姿に、大変な苦難を通っておられる方々は、確かにそうだと同感される方も多いかと思います。どんな悪い事をした罰なのか解らないと訴えているヨブを目の前に見ながら、友人たちは、その答えを、それぞれが模索するのです。


祈り

苦悩の中におられる方よ。私たちは、そのような苦しみの中においても、神がおられて見守って下さる、信じがたいことを信じることができますように、決して簡単に回答が得られて、解決の策が示されるとは限りません。解決のない解決に導かれますように、痛みが少しでも和らぎますように祈ります。アーメン 

文:森 宗孝


 
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