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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 18章は「シュアハ人ビルダデが答えた。」で始まる。

 ビルダデはサタンによる様々な人間の行いをヨブに述べているように思える。


 ヨブは義人であった。なのに財産や家族もなくす、という因果応報とは程遠い仕打ちに遭う。

 なぜ義人に悪いことばかり起こるのだろう。

 

 「因果応報」とは、良いことには良い報い、悪い行いには悪い報いあるという考え方を意味する。


 ヨブの友人達はどこか気が付かなかった所で罪があったのではないかと断罪する。罪の覚えのないヨブが神様に潔白を訴える姿は、親の機嫌をそこねた子供が泣きじゃくり袖を掴んで必死に親に潔白をわかってくれるよう懇願しているようにも思える。


 「なぜ、こんなことが起こるの」「どうしてこんなことが私の身に起こるの」と言った質問には答えがない時があると、牧師先生が仰った。

 こういうことが起こるに際し、神様の意図はなんだろうと考えると見方がかわる時もある、と付け加えられた。


 何章かに渡って嘆きを訴えるヨブであるが、ここでは、いかに真剣にありのままを神様にぶつけているかが焦点ではなかろうか、と考える。


祈り:

 天の父なる神様、イエス様の十字架で、私をあなたの子供として下さったことに感謝します。心の内をヨブのように全て余すことなくぶつけられるのは子供としての特権です。感謝します。今日も語りかけて下さい、導いて下さい。主イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン

文: マッカーター政子


 

 友人から見放され、家族もいなくなった今、ヨブには神にしか頼る者がいなくなりました。この全き見捨ての中で、ヨブは憐れみの神に出会います。「私の霊が乱れ、私の日は尽き、私には墓があるだけです。実に、嘲ける者たちが私とともにいます。私の目は彼らの敵意の中で夜を過ごします。どうか、私を保証してくれる人をあなたのそばに置いてください。ほかにだれか誓ってくれる人がいるでしょうか。」(1-3節)。

 ヨブは、天にあり、人を創造し、裁く神に慣れ親しんでいましたが、今、神の別の側面、愛と憐れみの神を見いだそうとしています。イエス様は、マタイによる福音書6:32~33で、「あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは、それに加えて与えられます。」といって、人を生かす神を語られました。


 でも、ヨブは相変わらず友人たちを許せません。自分を批判する友人たちが勝利を得ることがないように、「あなたはあの者たちの心を賢明さから引き離されました。ですから、あなたが彼らを高くあげられることはありません。」と神に祈ります(4節)。

 ヨブは嘲られ、顔に唾され、人は自分の惨めな姿を見て驚くかも知れないと思いながらも、彼は自分の正しさを主張し続けます。

「分け前を得るために友の告げ口をする者。その子らの目は衰え果てる。神は私を人々の笑いものとされ、私は顔に唾される者となった。私の目は苦悶でかすみ、私のからだはどこも影のようだ。心の直ぐな人はこのことに驚き恐れ、潔白な人は神を敬わない者に向かって憤る。正しい人は自分の道を保ち、手のきよい人はつよさを増し加える。だが、あなたがたはみな帰って来るがよい。私はあなたがたの中に知恵のある者を一人も見出さないだろう。」(5-10節)。

 このヨブの心の強さは信仰から来るのでしょうか。彼はこのような絶望に追い込まれても、神は見ているはずだ、誰か理解してくれる人はいるはずだと思い続けます。このつたない希望が信仰なのでしょうか?イエス様は絶望の中で神を求め続けられました。

「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。(へブル人への手紙5:7)。

 ヨブは信仰の大いなる決心を述べましたが。しかし、その反動でまた落ち込んでしまいます。自分はもはや暗黒の陰府の他に行くべき家はなく、ちりの中に伏すべき存在であることを知って、再び絶望の闇の中に落ち込んでしまいます。わたしの日は過ぎ去り、私の企て、私の心の願いも砕かれた。


「夜は昼に変わり、闇のあるところに光が近づく」と人は言う。しかし私が、よみを自分の住まいとして望み、闇に自分の寝床を広げ、その穴にむかって「あなたはわたしの父」と言い、うじ虫に向かって「あなたは私の母、私の姉妹」と宣言するなら、いったい、どこに私の望みがあるのか。だれが私の望みを目にするのか。それらがよみの戸口にくだったとしても、私たちがともに、ちりの上に降りたとしても。(11-16節)


主の祈り:落胆しても、苦悶の中でかすかな希望を見出すヨブを学びました。私たちが苦悶の中にある時に、ヨブにならって同じような経験ができるのでしょうか? 聖霊様、助けてください。あなたの助けを求めて止みません。今日の御言葉を感謝します。アーメン


 

「今でも、天には私の証人がおられます。私の保証人が、高い所に。」19節

「私の友は私を嘲る者たち。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。」20節

「その方が、人のために神にとりなしてくださいますように。人の子がその友のためにするように。」21節


 ヨブ記16章は、再び登場するテマン人エリファズへのヨブの応答である。エリファズの語りは以前に語った時よりも言葉が激しくなったので、ヨブは、その言葉に傷つき、自分の気持ちを告げたのである。

「そのようなことは、私は何度も聞いた。あなたがたはみな、人をみじめにする慰め手だ。」2節

 慰めに来た友人たちの口から出た言葉は、ヨブをみじめにするものになったのです。そして、ヨブは神に祈るのです。

「私の友は私を嘲る者たち。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。」20節

 つまり、友が自分をあざけるその時に、彼は神に対してその悲しみを表現しているということです。なぜなら、ヨブは、神が自分の悲しみを受け取ってくださると信じていたからだと思います。


 21節の御言葉に目が留まりました。

「その方が、人のために 神にとりなしてくださいますように。

 人の子がその友のためにするように。」21節


 解説者によりますと、ヨブは自分が死ぬ間際に、自分のために執り成してくださる方がいることを宣言しています。そしてその方を「人の子」とも呼んでいます。これはメシヤ、キリストの称号だと言われているそうです。保証人といい、執り成し手といい、すべて主イエス・キリストの働きです。聖書もまだ出てないときに、このようなことをヨブが発言するとは、彼には預言の賜物があったのではないかと思わされました。旧約に生きた聖人たちは、苦難のときに保障人となってくださるメシヤを心から待ち望んでおられたのでしょう。


「私の子どもたち、私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。」Ⅰヨハネ2:1


 主の御名を賛美します。

 新約の時代にいきる私たちは、メシヤ、キリストを心に受け入れているので助けを求める特権を与えられていることに心から感謝します。主イエス・キリストは、今もこれからもずっと私たちのために、父なる神の右の座にてとりなしてくださっておられることに心から感謝します。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 
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