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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『空しい慰め』


 ヨブの友人ツォフォルへの答えが21章ですが、ツォフォルは自分の中の怒りを抑えきれずに、間接的にヨブを批判したのです。嘆きの中にいる友人が、求めているのは、神学的な患難の理由などではなくて一緒に泣いてくれる、痛みをわかってくれる相手が必要なのではないでしょうか。男の性格として、例えば、妻が仕事場でいじめにあった話を詳しく聞くと、寄り添うよりも、その解決案を探してしまうのです。ヨブの友人たちも、彼を慰める為に集まって何とか力になりたいと思っていたわけですが、ヨブの話の中から、患難が起きる理由探し、神学的な理由をもって現状を分析してしまう、男の性格が表れてしまっているのです。それに対してヨブが1節「私の言い分をよく聞いてくれ。それを、あなたがたから私への慰めにしてくれ。」と友人たちを突っぱねるような答えから始まります。


 ヨブの逆境は、自分の唯一の頼りとする神が、自分の人生から見えなくなってしまったことにあります。今まで主が共におられることを実感していたのに、今は見えないのです。そのような経験は、おうおうにして、私たちのクリスチャン生活の中でも同じ思いを持つことがなかったでしょうか。光がみえなくなったので、そこに疑いが頭をもちあげてくるのです。クリスチャンだけではありません、この世の富を頼る資産家が、株の暴落ですべてを無くしてしまった、その時ほどみじめな思いをすることはありません。唯一の土台であった神の存在が、消えてしまった訳ではありませんが、見えなくなってしまったのです。 


 ヨブの三人の友人たちは、神は聖なるお方であるから、正義には幸福を、不義には不幸をもって報いるお方なので、今の患難はヨブが咎を犯した結果であり、ヨブがもとの幸福な状態に戻るためには、神の前に謝罪することであると主張しているのです。しかし、ヨブとの論議が重なるたびに、今までは面と向かって、ヨブが罪人であると言わなかった知人たちは、熱があがってきてしまいます。しかし、この論議の中で、特に前の19章で、ヨブは苦しみのために、神の奥義を垣間見たのではないかと思うのです。特に19章25節私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。」と主イエスとあたかも出会ったようなコメントがあるのです。それでも安心しきったというわけではありません。ヨブは身体の苦しみのあまりに、友人達の思いやりのない言葉に反発をするのです。これは私たちの信仰による苦しみの旅を表しているのではないでしょうか。行き場のない怒りが友人に向かって34節「それなのに、どうしてあなたがたは空しいことばで私を慰めようとするのか。あなたがたの応答は、不信実以外の何でもない。」ヨブの怒りは頂点に達してきます。


 私たちは、自分達が信じる主イエスの姿が見えなくなってしまう時にこそ、自分の信仰が試されている時でもあるのではないでしょうか。そして、自分の患難、自分の痛さ、苦痛にだけ目を留めているうちには、なんの解決も、答えも出すことはできませんが、主の目で自分を見ることができた時に、主と自分が重なり合って、主の力が与えられて、求めていた答えが見えてくるようになるのかもしれません。


祈り

自分の痛みのせいで、慰めにきてくれた友人の気持ちを理解することもできなくなってしまうこともあるでしょう。しかし、主イエスの目で自分を見つめ、友人たちを見ることができますように、痛みを和らげて、聖霊によっての導きを叶えてくださいますように。アーメン 

文: 森 宗孝


 

『悪しき人間が神から受ける分』


 ツァファルの2回目の論争です。どうしても話を続けてゆくと、相手が納得してくれれば良いのですが、意見が衝突してしまうと論争にも、もっと感情が入り混じって、怒りが表れてくるのではないでしょうか。口調も強くなって、自分の意見を述べてくる、そのような思いが、この2回目の論争には見えるのです。そうして、さらに、これから先に3回目の論争と発展してゆくのがヨブ記ですが、終わりのない終わりといっても良いかもしれません。 最後まで、ヨブの悲劇は、天上でのサタンの挑戦が原因であったとは、一言も説明されていないのです。舞台裏を知るのは、読者である私たちだけで、ヨブも彼の友人も、患難の原因を理解することはないのです。解決のない解決とも言われています。しかし、その論争の過程に私たちが共感することが、多く含まれていると思いませんか。


 ツァフォルはヨブに反論します。自分に侮辱となる訓戒を聞いて、悟りを与える霊が私に答えを促すのだ。とですから、これから彼の語ることは悟りの霊のことばなのだと言っているのです。そしてきつい言葉つきになってます。12節&14節「たとえ悪が口に甘く、彼がそれを下の裏に隠しても、」「彼の食べた者は腹の中で変わり、彼の内側でコブラの毒となる。」これはヨブに対して、かなり腹を立てた言い方ではないでしょうか。 お前がいくら隠しても、悪が腹のなかで毒となったのだぞ!と怒りに燃えた言い方で、決して悟りの霊のことばとは思えません。私たちも、お見舞えに行ったのに、さんざん悪態をたれる方にへきへきして、心の中では、自動自得などと思ったりしていないでしょうか。ヨブの場合には、もっと深刻な出来事で、なぜ誠実で真っ直ぐな心の者、神を恐れて悪から遠かっている者が、患難の中を通されるのかという、人生の大問題を投げかけられています。


 やがて、この長い長い論争の後に、主の諭しが30章から出てくるのですが、その前に、ヨブと友人たちの論争を読み取りながら、自分だったらどうするだろう、そしてどのように主が導いてくださり、本物の悟りの霊である、聖霊のことばが心の中に響くのを待つのです。


 ツァフォルは、かなりきつい一打をヨブに加えています27節から29節「天は彼の咎をあらわにし、地は彼に逆らって立つ。彼の家の作物はさらわれ、御怒りの日に消え失せる。(これはまさにヨブの身に起こったことではありませんか)そして、決定打は29節「これが悪しき人間が神から受ける分、神によって定められた、彼の受け継ぐものである。」と決めかかって、ヨブの災難を彼の持つ咎のせいだと決めつけているのです。しかし、もう一方で、これらのことばは、もしかしたらヨブの悔い改めを促す、厳しいことばだったのだろうかとも考えられますね。


祈り

ヨブよりも、全く咎を持つことのない主イエスが、私たちの罪のために十字架にまでかかって下さいました。ヨブはなぜ自分がとなげきますが、主イエスは嘆くこともなさらずに、父なる神に最後まで従順に従われましたことに感謝致します。アーメン 

文:森 宗孝


 

「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。」25節


「私の皮がこのように剥ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。」26節


「この方を私は自分自身で見る。私自身の目がこの方を見る。」27節(抜粋)


 自分の潔癖さを友人たちの激しい罪の攻撃の中で証明できない中で発した言葉です。ヨブは16章19節で、「今でも、天には私の証人がおられます。私の保証人が、高い所に。」と語っています。以前は、神と人との間に手を置く仲裁者がおればいいという希望を持っていました。そして、19章25節では、さらに「贖う方が生きておられる」と断言しています。ヨブの心がさらに神への信頼へと強められていく思いです。


 26節の「肉から神をみる。」と27節の「私自身の目がこの方を見る。」と言うヨブの言葉に目が留まりました。神を見ることは誰もできないと聖書は語っています。あのモーゼでさえも神の後ろ姿しかその栄光を見ることができませんでした。このヨブの大胆な発言に絶句させられました。


 これは、自分がこのような状態から解放されることを期待し、さらに「私を贖う方」が「地のちりの上に立たれる」ときと、「私の皮膚がこのように剥ぎ取られた後」というときを重ね、苦しみの後で自分が贖い出されるということを期待したと言われています。そしてさらに、神によってその無実が認められた者として、肉なる存在が仰ぎ見ることができない「神を仰ぎ見る」ことができると期待していると解釈者は語っています。さらに語られています。ヨブ自身が死の支配の力から贖い出され、神を自分の「肉、自身、目から見る」ということが強調されると語っています。


 私たちの贖い主は、私たちの罪のために十字架で死なれ、三日目によみがえられた主イエス・キリストです。そのお方によって罪から解放され、永遠のいのちがあたえられました。なんという感謝なことでしょうか。その恵みを覚えて、つねに謙遜になり、他者の苦しみ、悲しみに寄り添って祈り合っていくことが私たちクリスチャンの励みではないでしょうか。



 ハレルヤ!主の御名を心から賛美します。

私たちの贖い主となってくださった主イエス・キリストの愛により、日々生かされてくださっていることに心から感謝します。この無償の愛、恵みを多くの人に語り続けることができますように私たちを用いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 
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