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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『義を堅く守る』


 サタンは、ヨブの骨と肉を打ってみれば、ヨブはきっと、面とむかってあなた(神)を呪うに違いありません。とヨブ記の始まりにあるわけですが、ヨブは主を呪うようなことはせず、6節「私は自分の義を堅く保って手放さない。私の良心は生涯私を責めはしない。」とここで断言しています。主に対して、なぜこのような災難が自分の身に起こるのか、教えて欲しい、自分はもう生まれてこなかった方が良かったとは言っていますが、サタンの目指していた、神を呪う言葉はヨブの口から出ていないのです。ヨブは骨の髄まで、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていたからです。


 そうして、ヨブは苦しみの絶頂で主に近づき、死者の上に立つ復活の主の姿を垣間見て、神を救い主として仰ぐという確信に達してゆきました。信仰の進歩は、大変な価値がありますが、それに到達するには、尊い代価を払わなければなりませんでした。主なる神は、サタンの挑戦すら、信仰の発展に結びつく道をヨブにお示しになったのではないでしょうか。


 Iコリント10章13節「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」とあります。ヨブにとって脱出の道とは何だったのか。友人たちの論争の中で、怒りが込み上げてきたものの、それは自分の心の確信となって働いていたのではないでしょうか。私は義を堅く守るという確信は、ヨブの患難を経験したことによって、さらに硬い信仰と育って行ったのではないかと思います。


 それでは、ヨブは完全な義の人であったかと言うと、そうではありません。ヨブの問題点は、神の義よりも、自分の義、自分の言い分を主に訴えたいのです。それはヨブの義が、主の義より優っていることになってしまう、これは私たちすべての者が陥る自己中心の罪であって、ヨブもそういう意味では、罪の人であったわけです。しかし、同時に神をいつまでも、求める信仰の人でもあったのです。


3〜4節「私の息が私のうちにあり 神の霊が私の鼻にあるかぎり 私の唇は決して不正を言わず、私の舌は決して欺くことを語らない」ヨブは自分に聖霊の助けが働いていることを認識したのでしょうか。主イエスによって、聖霊を私たちが頂いていることを知っている自分達も、彼と同様な決断、不正を言わず、欺くことを語らないと言い切ることができれば幸いです。


祈り

ヨブの苦しみを、読みながら共感し、また彼の信仰を増すのを読むにあたり、どうか自分には、このような苦しみを与えないでくださいと勝手な祈りをしながらも、同時に、深い信仰を持ちたいと願う、自分勝手な者がおりますことをお赦しください。アーメン 

文: 森 宗孝


 

 ヨブ記26章はビルダデに対する反論が繰り広げられている。また、26章はヨブの最後の力を込めた言葉が記されているとも言われています。


 14節の御言葉に目が留まりました。


「見よ、これらは神のみわざの外側にすぎない。私たちは神についてささやきしか聞いていない。御力を示す雷を、だれが理解できよう。」


 7節から13節のヨブの御言葉は実に博学者の語りのようである。実に内容がこくて大変むつかしく思われます。つまり、14節は人間の悟りの問題は、神の道の外側しか分からないということだと言われています。 


 ヨブの三人の友人たちの発する言葉は人間の悟りであって、ヨブが求めているのは神の道の内側からの応答である。


 私たちも自分の悟りで相手を励ましても、励まされる側としては単なる空回りにしか聞こえるのではないでしょうか。他者を励ます時には自分の悟りではなく主に拠り頼んでいくことだと思います。


「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。」箴言3:5


「あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされ  る。」箴言3:6


「自分を知恵のある者と考えるな。主を恐れ、悪から遠ざかれ。」箴言3:7


 ヨブがビルダデに言いたかったのは、神の知恵というのはもっと深く、人間には聞き分けることはできないほどのものだと言っているのです。 



 愛する天の父なる神さま。あなたの御名を心からほめたたえます。

他者を励ます時には、常にあなたに拠り頼んでいくことができますように、義なる道へと導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


 

「シュアハ人ビルダデが答えた。主権と恐れは神のもの。神はその高い所で平和をつくられる。その軍勢の数には限りがあるだろうか。その光に照らされない者がいるだろうか。人はどうして神の前に正しくあり得るだろうか。女から生まれた者が、どうして清くあり得るだろうか。ああ、神の目には月さえ輝きがなく、星も清くない。まして、うじ虫でしかない人間、虫けらでしかない人の子はなおさらだ。」


 ビルダデはヨブの友人です。ヨブに降りかかったすべてのわざわいを聞いて同情したビルダデは、彼を慰めようと他の友人たちと共に訪ねて来ていました。しかしビルダデはヨブの苦しみに寄り添うよりも、神の正しさを強調し、彼の苦難を批判しました。


 25章はビルダデの最後の発言の箇所です。彼は、神の絶対的な主権を強調することで、ヨブの自己弁護を無意味にしようとしています。ヨブが自身の義を主張するため、ビルダデは「人はどうして神の前に正しくあり得るだろうか」と反論しています。しかしヨブはなぜこのような苦しみを受けるかを問うてるだけで、彼自身の正しさを主張しているわけではありません。


 神の偉大さを認めることは大切ですが、ビルダデのような「人間は無価値」といった極端な主張は危険だと思います。神にとって人はそのような無価値な存在だなどと聖書には書いてありません。聖書の神は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と言われます(イザヤ43:4)。


 苦しむ人に対して試練の理由を理論立てて意見するのではなく、その苦しみに対して共に寄り添う心を持つことが大切であることを教えられました。


 祈り:愛する天のお父さま。神は愛であり、私はそのあわれみの中で生かされていることを感謝いたします。その大きな恵みを厳粛に受けとめ、御心に従う信仰生活を送らせてくださいますよう、導いてください。主イエス・キリストの御名によって感謝して祈ります。アーメン。


文:アイゾン直子


 
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